<国立歴史民俗博物館>
縄文と弥生の境目がわからなくなったことで、
まず見直さなければいけないのが
「稲作」という文化かもしれません。
これまでは「大陸から大挙して押し寄せた
渡来人たちが、西から東に向かって
短期間のうちに稲作文化を広めて行った」
という説が一般的でしたが、
縄文晩期の遺跡から水田遺構と共に、
木製の鍬や石包丁や炭化したコメが
見つかったりするなど、少なくとも縄文後期には、
陸稲(りくとう ・おかぼ)による稲の栽培が
行われていた形跡が見られると聞きます。
さらには、日本全土を席巻する勢いで
伝播したとされる水田稲作が、
中部地方のあたりで一旦ペースを落とし、
その後東日本全体に行き渡るまで、
およそ500年前後の時間を要した
(つまり水田稲作を拒んだ地域が存在した)
……など、既存の説を覆す事実が次々に
明らかになってきたのだとか……。
このあたりの事情については、
機会があれば詳しく考察してみたいと思いますが、
とにもかくにも、私たちが弥生時代と認識していた
一部の期間は、縄文的な生活を営む人と
弥生的な生活にシフトした人とが、
混在して暮らしていたことがわかってきたのです。