仙台市医師会報掲載のアップです
宇塚善郎先生は,平成27年5月23日午後5時半に息を引き取られました。
通夜は、 5月26日 午後6時から
告別式は、5月27日 午後1時から
仙台 斎苑で執り行われました。
通夜の儀後は、妻美恵子様の、夜を徹して、若き日に合唱されたというドイツ語の野バラの歌声を届け続けられました。
明けて、5月27日に、出棺に始まる葬儀一式が執り行われました。栃木県にある菩提寺、真言宗、無量寿院の住職様により執り行われ、戒名 宝寿院無量医光善照清居士を授けられました。
弔辞
先生の人となりを知る友人の多くの方はこの世を去りました。40有余年の間、先生の近くで研究、診療の時間をすごした齋藤淑子が、先生の御逝去に際し、謹んで弔辞を述べさせていただきます。
栃木県清洲村の旧家の跡取りとして生を受けた先生は、農林省の役人として全国に赴任して家を不在にする父の名代として幼き日から祖母“つや”様から古今の記憶に残ることわざによる薫陶を受け、19代当主として、母屋の新築、3層の池を備えた江戸時代に築ずかれた庭の整備、家周囲の壁、そして二層になっている長屋門の改築を成し遂げ、1200年代から続く家の維持への気概を示されました。
旧制栃木中学校時代は、小高い丘から、通学のバスに間に合うように駆け下り養った健脚で、旧制四高入学後は、陸上部アカシア会に入部し、長距離のエースとして期待されましたが、病を得た休学中に医学部を志すようになり、病床に臥せっていた当時の気持を、親しみやすいウイットに富んだ患者との語らい、医師として治すという強い気持を持ち続けた診療に結実させたお心は、学ぶことの多いお姿でした。
インターンとして過ごされた竹田総合病院時代では、ほかの先生への苦情を訴えていた患者に “文句ばかり言う前に気持ちを表す礼でももっていけ”と諭した指導の外科の先生の貴賤をつけない自負を持った医師としての姿勢に感銘を受け、気仙沼病院時代の、往時の先生の真摯な診療姿勢を懐かしんで、数十年経ても、仙台血液疾患センターを訪問していただいた方々がいらっしゃったことは、信頼を得る大事さを教えていただきました。
白血病の宇塚というイメージが定着していますが、東北大学第3内科に入局まもないころは、宇都宮徳馬氏が生存中は、季節の挨拶が欠かされなかったミノファーゲンが肝臓の機能障害を改善するという報告、学会号外がでたというマイトマイシンにより胃がんは瘢痕まで縮小するなどの報告をされ、固形がんをなど多岐にわたる研究をされていたようです。とことん突き詰める勉学の広い知識が、血液疾患の診療に反映され、好成績を得るには必要だということを教えていただきました。
昭和47年(1972年)に新潟で開催された日本血液学会総会の報告は、学会場では、さんざんクサされ、共同縁者と天を仰いで寝転んだ急性白血病の報告が、国立がんセンターの故木村禧代二先生の目に留まり、日本初の集学的研究の共通テーマに取り上げられ、名古屋大学の故山田一正先生によりDCMP2段治療と命名され、また、1976年東北ジャーナル、山形教授退官記念号に掲載された英語論文が欧文誌で取り上げられ、先生は時代の寵児となられ、担当医師による成績の違いに驚いた、私は、先生の門をたたきました。その後、多くの国内、国際学会にともに参加させていただき、アメリカのゲール博士からライバル視される存在の先生、白血病の化学療法を治癒可能な成果を挙げた世界で最初の医師として1980年のモントリオール国際血液学会の教育講演で紹介された時は、日本から出席されていた先生方からどよめきが起きる先生は弟子一同の誇りでした。
患者の救命のため日常診療に費やさなければならない時間の多さゆえ、タイムリーな業績報告は勢い少なくならざるを得ず、多くの有益な方法、成績を未発表のまま、この世を去ったことは憂慮すべきことであり、弟子の力不足ゆえに苦汁を味わせてしまったと、深い自戒の念を感じております。かならずや、投稿し上梓を目指して努力を続けることをここでお誓い申し上げます。
先生が退官した1990年当時は、血液専門医の不足は著しく、患者の不安、要請に応えるべく、日本初の血液専門病院、研究所を併設した仙台血液疾患センターの開設という大英断をされました。万巻の書を読み、研究に基づいた、あきらめ無い診療姿勢は、患者、家族の信頼を得て、重篤といえども希望を抱けることで、明るく、病院に見学に訪れた方に深い感銘を与える病院を運営されました。
旧式の光学顕微鏡による網膜焼灼による右眼失明に加え、2004年に罹病した脳幹部梗塞の影響は、弱視であった左眼も徐々に視力が低下し、東日本震災後ごろからは足元の確認もおぼつかない状態でありましたが、先生の名言“重症患者に助けられ”と周囲の援助の手を快くうけいれる態度へと変化し、日々の診療を自分の状態に合わせて続けていらっしゃられる姿は、かっての独立独歩でさっそうとしたスタイルが好きな先生を知るものとしては、変容のありようを学ばさせていただきました。
多くの訓戒のことばと長きにわたるご指導を感謝しつつ、今後は叱咤激励の励ましの声をいただけない静穏の時間のなかで、先生とのわかれに戸惑いと深い悲しみを覚えています。
安らかに冥府の世を楽しんでください。
再び永世のあの世で再開することを心から願いつつ、しばしのお別れを申し述べて弔辞とさせていただきます。
平成27年5月27日 齋藤淑子
目下、齋藤淑子は、書きかけの原稿のデーターを最新のものにするため、”患者”と向き合っています。
すでに冥界に旅立った患者と、先生はどのような出会いをされているのかしら?と、
一緒に患者データを繰り返し繰り返し掘り下げて検討しながら、
『助けられなかった患者は、どうやってむかえてくれるだろう?』まだまだ、活力があるときには『まだ来るな!と追い返されるかな。』など、白血病からの生還に寄与できなかったのは何故だと追求、研究、文献の読み漁りをしていました。最期の日まで、患者を助けたかったのだけれど、体力、気力も尽きてきて、『もういいかな』
患者に自分で食べて美味しかったのは、食べさせたくて。病棟、閉鎖まぎわの、毛ガニは大好評で、生きていて良かったとまでいってくれた患者もいましたっけ。
患者との談笑は、愉しそうだったので、再開しているでしょうね。
宇塚善郎先生は,平成27年5月23日午後5時半に息を引き取られました。
通夜は、 5月26日 午後6時から
告別式は、5月27日 午後1時から
仙台 斎苑で執り行われました。
通夜の儀後は、妻美恵子様の、夜を徹して、若き日に合唱されたというドイツ語の野バラの歌声を届け続けられました。
明けて、5月27日に、出棺に始まる葬儀一式が執り行われました。栃木県にある菩提寺、真言宗、無量寿院の住職様により執り行われ、戒名 宝寿院無量医光善照清居士を授けられました。
弔辞
先生の人となりを知る友人の多くの方はこの世を去りました。40有余年の間、先生の近くで研究、診療の時間をすごした齋藤淑子が、先生の御逝去に際し、謹んで弔辞を述べさせていただきます。
栃木県清洲村の旧家の跡取りとして生を受けた先生は、農林省の役人として全国に赴任して家を不在にする父の名代として幼き日から祖母“つや”様から古今の記憶に残ることわざによる薫陶を受け、19代当主として、母屋の新築、3層の池を備えた江戸時代に築ずかれた庭の整備、家周囲の壁、そして二層になっている長屋門の改築を成し遂げ、1200年代から続く家の維持への気概を示されました。
旧制栃木中学校時代は、小高い丘から、通学のバスに間に合うように駆け下り養った健脚で、旧制四高入学後は、陸上部アカシア会に入部し、長距離のエースとして期待されましたが、病を得た休学中に医学部を志すようになり、病床に臥せっていた当時の気持を、親しみやすいウイットに富んだ患者との語らい、医師として治すという強い気持を持ち続けた診療に結実させたお心は、学ぶことの多いお姿でした。
インターンとして過ごされた竹田総合病院時代では、ほかの先生への苦情を訴えていた患者に “文句ばかり言う前に気持ちを表す礼でももっていけ”と諭した指導の外科の先生の貴賤をつけない自負を持った医師としての姿勢に感銘を受け、気仙沼病院時代の、往時の先生の真摯な診療姿勢を懐かしんで、数十年経ても、仙台血液疾患センターを訪問していただいた方々がいらっしゃったことは、信頼を得る大事さを教えていただきました。
白血病の宇塚というイメージが定着していますが、東北大学第3内科に入局まもないころは、宇都宮徳馬氏が生存中は、季節の挨拶が欠かされなかったミノファーゲンが肝臓の機能障害を改善するという報告、学会号外がでたというマイトマイシンにより胃がんは瘢痕まで縮小するなどの報告をされ、固形がんをなど多岐にわたる研究をされていたようです。とことん突き詰める勉学の広い知識が、血液疾患の診療に反映され、好成績を得るには必要だということを教えていただきました。
昭和47年(1972年)に新潟で開催された日本血液学会総会の報告は、学会場では、さんざんクサされ、共同縁者と天を仰いで寝転んだ急性白血病の報告が、国立がんセンターの故木村禧代二先生の目に留まり、日本初の集学的研究の共通テーマに取り上げられ、名古屋大学の故山田一正先生によりDCMP2段治療と命名され、また、1976年東北ジャーナル、山形教授退官記念号に掲載された英語論文が欧文誌で取り上げられ、先生は時代の寵児となられ、担当医師による成績の違いに驚いた、私は、先生の門をたたきました。その後、多くの国内、国際学会にともに参加させていただき、アメリカのゲール博士からライバル視される存在の先生、白血病の化学療法を治癒可能な成果を挙げた世界で最初の医師として1980年のモントリオール国際血液学会の教育講演で紹介された時は、日本から出席されていた先生方からどよめきが起きる先生は弟子一同の誇りでした。
患者の救命のため日常診療に費やさなければならない時間の多さゆえ、タイムリーな業績報告は勢い少なくならざるを得ず、多くの有益な方法、成績を未発表のまま、この世を去ったことは憂慮すべきことであり、弟子の力不足ゆえに苦汁を味わせてしまったと、深い自戒の念を感じております。かならずや、投稿し上梓を目指して努力を続けることをここでお誓い申し上げます。
先生が退官した1990年当時は、血液専門医の不足は著しく、患者の不安、要請に応えるべく、日本初の血液専門病院、研究所を併設した仙台血液疾患センターの開設という大英断をされました。万巻の書を読み、研究に基づいた、あきらめ無い診療姿勢は、患者、家族の信頼を得て、重篤といえども希望を抱けることで、明るく、病院に見学に訪れた方に深い感銘を与える病院を運営されました。
旧式の光学顕微鏡による網膜焼灼による右眼失明に加え、2004年に罹病した脳幹部梗塞の影響は、弱視であった左眼も徐々に視力が低下し、東日本震災後ごろからは足元の確認もおぼつかない状態でありましたが、先生の名言“重症患者に助けられ”と周囲の援助の手を快くうけいれる態度へと変化し、日々の診療を自分の状態に合わせて続けていらっしゃられる姿は、かっての独立独歩でさっそうとしたスタイルが好きな先生を知るものとしては、変容のありようを学ばさせていただきました。
多くの訓戒のことばと長きにわたるご指導を感謝しつつ、今後は叱咤激励の励ましの声をいただけない静穏の時間のなかで、先生とのわかれに戸惑いと深い悲しみを覚えています。
安らかに冥府の世を楽しんでください。
再び永世のあの世で再開することを心から願いつつ、しばしのお別れを申し述べて弔辞とさせていただきます。
平成27年5月27日 齋藤淑子
目下、齋藤淑子は、書きかけの原稿のデーターを最新のものにするため、”患者”と向き合っています。
すでに冥界に旅立った患者と、先生はどのような出会いをされているのかしら?と、
一緒に患者データを繰り返し繰り返し掘り下げて検討しながら、
『助けられなかった患者は、どうやってむかえてくれるだろう?』まだまだ、活力があるときには『まだ来るな!と追い返されるかな。』など、白血病からの生還に寄与できなかったのは何故だと追求、研究、文献の読み漁りをしていました。最期の日まで、患者を助けたかったのだけれど、体力、気力も尽きてきて、『もういいかな』
患者に自分で食べて美味しかったのは、食べさせたくて。病棟、閉鎖まぎわの、毛ガニは大好評で、生きていて良かったとまでいってくれた患者もいましたっけ。
患者との談笑は、愉しそうだったので、再開しているでしょうね。
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