4月12日 東日本大震災、福島第1原発事故のニュースに関心が集まっているさなかに
ドナーカードでの意思表示のない未成年者の臓器が提供され、
臓器移植が行われるという発表があった。
レシピエントは、複数の成人。心臓は未成年者に(13日の報道で確認)。
賜った命という考えの私は、臓器職には賛成できる根拠を捜せない。
造血幹細胞は、職業の専門分野がら多数施行してきた。
”命そのもの”と、採取させていただいた血液を抱きかかえての
患者のもとへの歩みは緊張に張りつめていた。
健常者から分けていただいた命で、損なわれる命はない。
臓器移植の提供者は、健常な未来を期待された人の不慮の死から得られる。
今回の出来は、”最高の精密臓器部品を内臓をしているのは人間の体”
という世界に大きく一歩を踏み出してしまった気がする。
東日本大震災での死者は、信じたくなくても確実な死以外の何物でもない死。
臓器を提供する人の死は、心臓を含む多くの臓器はまだ生の代謝を行っている。
脳は、判定する人によって死を宣告される。
死を宣告する人を信頼することによって存在する死。
そして、採りだされる生きの良い臓器。
生きたい、生きていいてほしい という気持ちには共感し、日々の診療に励んでいるが、
臓器移植を受け入れがたい気持が変わらないままである。