みちのくの山野草

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『本統の賢治と本当の露』(124~127p)

2021-01-05 12:00:00 | 本統の賢治と本当の露
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉




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いないからだ。
 まして上田の前掲論文中には、「露の「下根子桜訪問」期間は大正15年秋~昭和2年夏までだった」という意味の露本人の証言も載っているから、もしそうだったとすれば、「一九二七年(昭和2年)の秋」に森が「下根子桜」を訪ねたとしても道の途中で露とはすれ違えないので、尚更その保証が必要となる。
 しかもよくよく調べてみたならば、賢治が亡くなった翌年の昭和9年発行の『宮澤賢治追悼』でも、『宮澤賢治研究』(昭14)でも、そして『宮沢賢治の肖像』(昭49)でも皆、その「下根子桜訪問」の時期を森は「一九二八年の秋」としていて、決して「一九二七年の秋」とはしていなかった。こういうことであれば、「一九二七年の秋」に森は「下根子桜」を訪問していなかったと、普通は判断したくなる。
 そんな時にふと思い出したのが、『宮澤賢治と三人の女性』では西暦が殆ど使われていなかったはずだということだ。そこでそのことを調べてみたならば案の定、全体で和暦が38ヶ所もあったのに西暦は1ヶ所しかなく、それがまさに「一九二八年の秋の日、私は下根子云々」の個所だけだった。しかも、同じ年を表す和暦の「昭和三年」を他の5ヶ所で使っているというのにも拘らずである。
 となれば、あれはケアレスミスなどでは決してなく、彼にはその訪問の年を「一九二七年」とはどうしても書けない何らかの「理由」が存在していたという蓋然性が高いと言える。しかもそこだけは和暦「昭和三年」を用いずに西暦を用いているということから、ある企みがそこにあったのではなかろうかと疑われても致し方なかろう。
 もはやこうなってしまうと、件の「下根子桜訪問」の年を森は決して「一九二七年」と書くわけにはいかなかったということがほぼ明らかだ。おのずから、同年の秋の日に森はそのような訪問そのものをしていなかったということも否定できなくなったので、今までの大前提が崩れ去り、この「直接の見聞」は実は単なる創作だったということがいよいよ現実味を帯びてきた。
 一方で、次のような疑問が湧く。森は『宮沢賢治 ふれあいの人々』(熊谷印刷出版部)の17pで、
 この女の人が、ずっと後年結婚して、何人もの子持ちになってから会って、いろいろの話を聞き、本に書いた。
と述べていながら、上田に対しては、
〈一九二八年の秋の日〉〈下根子を訪ねた〉その時、彼女と一度あったのが初めの最後であった。その後一度もあっていない。                   〈『七尾論叢11号』(七尾短期大学)77p〉
と答えたという。もちろんどちらの女性も露のことであり、森は露と会ったのは一度きりと述べたり、別の機会にも会ったと述べたりしていることになるから、件の「下根子桜訪問」に関して森は嘘を言っていた蓋然性が高い。ならばいっそのこと逆に、是非はさておき、その訪問時期は「一九二七年の秋の日」だったと森は始めから嘯くという選択肢だってあったはずだがなぜそうはしなかったのだろうか、という疑問が湧くのだった。

 5.捏造だった森の「下根子桜訪問」
 そんな時に偶々私が目にしたのが、平成26年2月16日付『岩手日報』の連載「文學の國いわて」(道又力氏著)であり、そこには、
 東京外国語学校へ入学した森荘已池は、トルストイも愛用した民族衣装ルバシカにおかっぱ頭という最先端のスタイルで、東京の街を闊歩していた。…(筆者略)…ところが気ままなボヘミアン暮らしがたったのか、心臓脚気と結核性肋膜炎を患ってしまう。仕方なく学校を中退して、盛岡で長い療養生活に入る。
ということが述べられていた。
 これによって、当時森は病を得て帰郷、その後盛岡病院に入院等をしていたということを私は初めて知って、そういうことだったのかと頷き、これこそが先の「理由」だと覚った。心臓脚気と結核性肋膜炎で長期療養中だった当時の森が「一九二七年」の秋に「下根子桜」を訪問することは土台無理だったから、「一九二七年」とは書けなかったのだ、と。
 念のため、『森荘已池年譜』(浦田敬三編、熊谷印刷出版部)も参照してみると、
・大正15年11月25日頃、心臓脚気と結核性肋膜炎を患って帰郷し、長い療養生活。
・昭和2年3月 盛岡病院に入院。
・昭和3年6月 病気快癒、岩手日報入社。
と要約できる。やはり、昭和2年(一九二七年)当時の森は確かに重病で盛岡で長期療養中だった。したがって、そのような重病の森が、盛岡から花巻駅までわざわざやって来てなおかつ歩いて「下根子桜」へ訪ねて行き、しかもそこに泊まれたということは常識的にはあり得ない。畢竟、森の「一九二七年」の「下根子桜訪問」は実際上も困難だったのだ。
 次に当時の『岩手日報』を調べてみたところ、昭和2年6月5日付同紙には「四重苦の放浪歌人」とも言われた下山清の「『牧草』讀後感」が載っていて、その中に、
 森さんが病氣のため歸省したこと脚氣衝心を起こしてあやふく死に瀕し、盛岡病院に入院したことは私もよく知つてゐる。
という記述があった。確かに『広辞苑』によれば、「脚氣衝心」とは「呼吸促迫を来し、多くは苦悶して死に至る」重病だというではないか。また他にも、石川鶺鴒等の同様な記述がいくつか『岩手日報』紙上に見つかった。
 これで、今まで謎だった「頑なに「一九二七年」としなかった」その「理由」が私には完全に納得できた。「一九二七年」当時の森は重篤であることがこうして新聞で広く伝えられていたので、森が「一九二七年」の秋に「下根子桜」を訪問したと書いたならば、世間からそれは嘘だろうと直ぐ見破られるであろうことを森はわきまえていたからだ、と。そして同時に、先に湧いた疑問、森が「一九二七年」と嘯けなかった理由もこれだったのだと私は納得した。とうとうこれで「詰み」だろう。
 最後に、「仮説検証型研究」に翻訳して万全を期す。まずはここまでの考察によって、
〈仮説8〉森荘已池が一九二七年の秋に「下根子桜」を訪問したということも、その時に露とすれ違ったということも事実とは言えず、いずれも虚構だ。
が定立できる。そして、これを裏付ける証言や資料は幾つもあったが、その反例は現時点では何一つ見つかっていないのでこの仮説の検証ができたことになる。よって、この〈仮説8〉は今後その反例が突きつ

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           〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
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