みちのくの山野草

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『本統の賢治と本当の露』(120~123p)

2021-01-04 12:00:00 | 本統の賢治と本当の露
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉




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と「事件」のことを語り合っている(Kが慶吾である)。
 さて、この二通りの慶吾の証言を比較してみると両者の間には結構違いがある。しかも、これらの証言からはオルガンは一階に置いてあったことになるが、実は慶吾以外は皆(宮澤清六、松田甚次郎、高橋正亮、梅野健造、伊藤与蔵)当時オルガンは二階にあったと言ってるから、こちらの方の蓋然性がかなり高い。そしてそれが二階にあったとなればこの慶吾の一連の証言は根底が崩れる。しかも「こそこそ」という表現も用いているからそこからは彼の悪意も感じられるので、この件に関する慶吾の証言内容の信憑性は薄い。したがって、このような事件があったとしても、これらの証言から「修飾語」を取り去ったものがせいぜい考察の対象となり得る程度のものだろう。
 このことを踏まえた上で慶吾のこれらの証言に基づけば、当日は少なくとも2人の来客があり、しかも賢治の分も用意したということになるから、最低でも3人分のライスカレーを露は作っていたことになる。ところが、下根子桜の別宅にはそれ用の食器等が十分にはなかった(『四次元7号』(宮沢賢治友の会)の15pで、当時寄寓していた千葉恭は、「食器も茶碗二つとはし一ぜんあるだけです」と述べている)はずだから、それらも露は準備せねばなかっただろう。その上、この別宅の炊事場は外にあったので、当時3人分以上のライスカレーを露がそこで作るということは大変なことであり、露のかいがいしさが窺える。
 ではこれで準備ができたので、『宮澤賢治と三人の女性』において「ライスカレー事件」に関して述べている次の部分を引用する。
 二階で談笑していると、彼女は、手料理のカレーライスを運びはじめた。
 彼はしんじつ困惑してしまつたのだ。
 彼女を「新しくきた嫁御」と、ひとびとが受取れば受取れるのであつた。彼はたまらなくなつて、
「この方は、××村の小学校の先生です。」と、みんなに紹介した。
 ひとびとはぎこちなく息をのんで、カレーライスに目を落したり、彼と彼女とを見たりした。ひとびとが貪(ママ)べはじめた。――だが彼自身は、それを食べようともしなかつた。彼女が是非おあがり下さいと、たつてすすめた。――すると彼は、
「私には、かまわないで下さい。私には、食べる資格はありません。」
と答えた。
 悲哀と失望と傷心とが、彼女の口をゆがませ頰をひきつらし、目にまたたきも與えなかつた。彼女は次第にふるえ出し、眞赤な顏が蒼白になると、ふいと飛び降りるように階下に降りていつた。
 降りていつたと思う隙もなく、オルガンの音がきこえてきた。…(筆者略)…その樂音は彼女の乱れ碎けた心をのせて、荒れ狂う獸のようにこの家いつぱいに溢れ、野の風とともに四方の田畠に流れつづけた。顏いろをかえ、ぎゆつと鋭い目付をして、彼は階下に降りて行つた。ひとびとは、お互いにさぐるように顏を見合わせた。
「みんなひるまは働いているのですから、オルガンは遠慮して下さい。やめて下さい。」
 彼はオルガンの音に消されないように、声を高くして言つた。――が彼女は、止めようともしなかつた。
〈『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)90p~〉
 さて、著者の森はこの時にそこに居合わせたということを同書のどこにも述べていないから、この記述の元になったのは既に公になっていた先の慶吾の証言しか考えられない。しかしながら、慶吾は「悲哀と失望と傷心とが……眞赤な顏が蒼白になると」というようなことは語っていない。となれば、この引用文の中で露はかなり悪し様に描かれてもいるから、そこには森の虚構や創作が含まれていそうだ。
 そしてそう感ずるのは私独りだけでなく、佐藤通雅氏も、
 このカレー事件の描写は、あたかもその場にいあわせ、二階のみならず階下へまで目をくばっているような臨場感がある。しかしいうまでもなく、両方に臨場することは不可能だ。…(筆者略)…見聞や想像を駆使してつくりあげた創作であることは、すぐにもわかる。
〈『宮澤賢治東北砕石工場技師論』(佐藤通雅著、洋々社)83p〉
と断じている。どうやら、前掲の森の引用文には森自身の手による虚構あるいは創作がありそうだ。
 よって、「下敷」にされたという『宮澤賢治と三人の女性』における露に関する記述には、一方的に露を悪し様に描いてる点や露の扱い方が不公平な点を含む、あやかしが少なくないことがこれで判った。

 4.「一九二八年の秋の日」の「下根子桜訪問」
 それでは、露に関して「あやかしでない」と思われるものとしては何がこの「下敷」に書かれているのだろうか。それは、
 彼女にはじめて逢った時の様子を『宮沢賢治と三人の女性』に森は高瀬露についていろいろと書いているが、直接の見聞に基いて書いたものは、この個所だけであるから参考までに引用しておく。       〈『七尾論叢11号』(七尾短期大学)77p〉
と上田が同論文中で断り書きをして引用している、唯一「直接の見聞」に基づいたと考えられる次の記述、
一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。…(筆者略)…ふと向うから人のくる氣配だった。私がそれと氣づいたときは、そのひとは、もはや三四間向うにきていた。…(筆者略)…半身にかまえたように斜にかまえたような恰好で通り過ぎた。私はしばらく振り返って見ていたが、彼女は振りかえらなかった。                                    〈同77p〉
だ(たしかに、『宮澤賢治と三人の女性』の74p以降にこのように書いてある)。
 ところが肝心のこれが大問題となる。「一九二八年の秋」であれば、賢治は豊沢町の実家で病臥していたのだから「下根子桜」にはもはや居らず、この引用文に書かれているような「下根子桜訪問」は森には不可能であり、「一九二八年の秋」という記述は致命的ミスであることが明らかだからだ。
 そこで、『新校本年譜』はこの「下根子桜訪問」についてどうしたかというと、
「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。    〈『新校本年譜』、359p〉
と註記して、これを「一九二七年の秋の日」と読み変えている。つまり同年譜は、「一九二八年」は森の単純なケアレスミスだったと判断していることになる。しかしながらこのような判断は安直であり、論理的でもない。そもそも、大前提となるそのような「下根子桜訪問」自体が確かにあったという保証は何ら示せて

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