みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

1813 千葉 恭の羅須地人協会寄寓9

2010-11-05 08:00:00 | 賢治関連
      <↑『宮澤賢治外伝』(佐藤 成著、星雲社)より>

 では今回は白鳥省吾(しろとりせいご、ペンネームの場合は”しらとりしょうご”)に関して少しく触れてみたい。

 佐藤 成が『面会を断られた 白鳥省吾』というタイトルで次のように述べている。
 文人としての賢治は中央文壇の誰からも気づかれない花巻という一地方で作品を書き続けていた。彼は同時代の文壇の思想潮流は自分に合わないと考えており参加を避けていたのである。
 このような賢治のところへ彼を訪問したいとの連絡があった。大正デモクラシーの潮流から日本詩壇に台頭した「民衆詩派」主導者の一人、白鳥省吾からの手紙である。
 白鳥は大正七年(一九一八年)創刊の雑誌『民衆』の中心的存在の理論的支柱となった人であり、また「大地に即せる新しき同志のために」大正十五年六月(一九二六年)大地舎を興し、機関誌『地上楽園』を主宰した人である。
 賢治は一応承諾してはいたが、盛岡啄木会の招きで講演のため盛岡に来ていた白鳥に、使いを出して急に約束の面会を断った。十五年七月二十五日のことである。
 使者の役は賢治が農耕自活をはじめた桜の家(後の協会)に寝泊まりしていた千葉恭で、彼は夕方六時頃盛岡六日町の講演会場(仏教会館)に白鳥を訪ね断りの意向を伝えた。
 「先生は都会詩人所謂職業詩人とは私の考へと歩みは違ふし完成しないうちに会ふのは危険だから…(『四次元』七号)」
といったのである。
 賢治は六月頃、農人として理想と目標を明確にした自己の指導原理とも言うべき「農民芸術概論綱要」をまとめ、農民芸術即ち非職業的芸術、普通の人(土の人)の普通の人のための芸術の興隆、新たな美の創造、具現化の方途を模索していたところであり、八月の「羅須地人協会」設立準備をしていた時でもあって、この時期、職業詩人である白鳥に会うことはむしろ危険であるとさえ考えたのである。一地方詩人にすぎなかった賢治からの、しかも人を介しての断りに白鳥は当惑したであろうことは間違いない。
 更に千葉は「先生は今の態度は農民のために非常に苦労しておられますから―」と話を続け、昨今の賢治の状態は毎日田畑で働いていて疲れてもおり夜は都合が悪いと付言したのであった。賢治三十歳、白鳥三十六歳のときのことである。
 こうして賢治に会うことを断られた白鳥省吾は明治二十三年(一八九〇)二月二十七日、宮城県栗原郡築館町屋敷四十七番地の農家、父林作、母きねよの次男として誕生。賢治の生まれた年と同じ明治二十九年(一八九六年)築館小学校に入学首席を通して卒業、三十五年(一九〇二年)宮城県第三中学校築館分校(現築館高校)に入学、三十八年(一九〇五年)十五歳のとき松島に修学旅行、はじめて海を見た。賢治が海を見たのも十五歳。十五の春の感動は詩情をそそる。四十年(一九〇七年)中学卒業、四十二年(一九〇九年)早稲田大学英文学科に入学、大正元年(一九一二年)『早稲田文学』に詩と評論を発表、翌二年(一九一三年)卒業、この時教授として残ることを勧められたが、賢治が助教授推薦を断ったように彼もまたこれを断った。卒業の翌年処女詩集『世界の一人』を刊行。彼の代表作といわれる「耕地を失う日」は、小農からの土地収奪と土地をとりあげられた農民の戦争への動員という二重の苦しみの現実を詩っている。民衆派詩人としての白鳥、その感性や心情は農民的といわれ「詩は大地と民衆の中の生活でしか書けない」と語っている。第三詩集『大地の愛』(一九一九年)の中に「開墾の日」がある。
 黒い豊かな土から/麦は青く萌えてゐる/ただそれだけのことが涙が出るほどの嬉しさだ、それが見渡すかぎりの畑/…(以下略)
 社会性のないもの、人生のない詩は好まないとの詩想に生きた白鳥、八十三歳の一生であった。昭和四十年(一九六五年)築館名誉町民・栗原郡名誉郡民、昭和四十八年(一九七三年)九月二十七日没、東京多摩霊園に眠る。…(以下略)

     <『宮澤賢治外伝』(佐藤 成著、星雲社)より>

 さて、この「開墾の日」の詩などから窺える白鳥の想いと当時の賢治の想いとの間には論理的に共鳴する部分が多かったはずである。白鳥は「詩は大地と民衆の中の生活でしか書けない」と主張し、一方
  おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい
  もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい…

と高らかに謳い上げた『農民芸術概論綱要』の指導原理の下、下根子桜で貧乏百姓と同じような生活(=最低生活)をするのが賢治の目的だったということだからかなりの点で共鳴したはずだからだ。なのに賢治は何故急に一方的に約束をキャンセルしたのだろうか。
 賢治はたしか「盛岡啄木会」のメンバーだったから白鳥のこと、その詩想も十分に知っていたと考えられる。とすればおそらくこの「開墾の日」の詩も賢治は知っていて、そこで白鳥が高らかに謳い上げている開墾の喜びに対して賢治は多少の後ろめたさを抱いていたのでもあろうか。
 というのは、大正15年4月1日の岩手日報
 『新しい農村の 建設に努力する 花巻農学校を 辞した宮澤先生』
という見出しで報道され、かつ賢治自身も意気込んで始めた下根子桜の農耕自活ではあったが、それから一月ほど経った日に詠んだであろう次の詩
  七〇九
      春
           一九二六、五、二、
  陽が照って鳥が啼き
  あちこちの楢の林も、
  けむるとき
  ぎちぎちと鳴る 汚い掌を、
  おれはこれからもつことになる

   <『校本 宮沢賢治全集 第四巻』(筑摩書房)より>
からは当初の賢治の意気込みとは乖離した諦念の兆しが感じ取れるからである。もしかすると、そこから生じてくる賢治の気後れが白鳥との約束を反故にさせたのであろうか。

 さらに次の「春」の下書稿(二)と定稿とを比べてみると、そこには賢治の戸惑い、逡巡、気後れなどが一層透けて見えてくる。
  陽が照って鳥が啼き
  あちこちの楢の林もけむるとき
  おれは
  ひらかうとすると壊れた玩具の弾条のやうに
  ぎちぎちと鳴る 汚い掌を
  これから一生もつことになるのか

   <『校本 宮沢賢治全集 第四巻』(筑摩書房)より>
つまり、定稿では
  『これからもつことになる
となっている部分が下書稿では
  『これから一生もつことになるのか
となっているからである。
 気負い込んで開墾を始めては見たものの、盤根錯節を取り除いて耕地にすることはプロの農民にとってさえも極めて困難なことなのに、農民のアマである賢治にとってはなおさらに容易なものではなかったことは明らか。そこで賢治は正直にポロッと、その現実に対するぼやきあるいは戸惑いとも取られかねない
   もつことになるのか
という表現をしてしまい、この苦難がこれからず~っと続くのかという目眩が
   これから一生
という語法となったのかもしれない。

 さすればもしかすると賢治は相当早い時点で覚悟が揺らぎ始めていて、それを取り繕っている自分に逡巡し、後ろめたさを心の裡に抱いていたのかもしれない。そこから生じてくる賢治の気後れや葛藤が白鳥との約束をいきなり急に反故にさせたのかもしれない。あるいはまさかとは思うが、そのような賢治の心の裡を白鳥に見透かされてしまうのではないかということを懼れていたためだったのかも知れない…な~んちゃって

 とかく天才は決断も早くて果敢であるが、一方では諦めるのも早い傾向にあると思う。

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