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みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

1808 千葉 恭の羅須地人協会寄寓7

2010-11-02 09:00:00 | 賢治関連
 今回は『四次元』に戻って「宮澤先生を追つて(二)」の報告をしようと思ったが、時系列で考えて先に「宮澤先生を追つて(三)」の報告をすることとした。
 それは大正15年の、下根子桜における賢治と千葉 恭との共同生活に関わる次のようなものである。

  「宮澤先生を追つて(三)―大桜の実生活―」
 大正十五年の春、先生は農學校を退いてから、花巻町の南端大櫻というに移りました。東は北上川に接し南の北上川、北は林をへだてゝ花巻町が展望され、西は奥羽山脈まで續く平地の小高い北上川のカーブでした。そこは永訣の朝に詠まれている「あめゆぢゆとてちてけんじや」と云ふて死んだ妹の療養所として建てられた小さい家でした。そこは大きな縣道から二丁ばかり杉の生い繁つた中に小さい路を入つて一寸開けた平かな場所です。春雨が長く續き北上川の水が増して、水音は何んとなくどんよりとした空に響き合ひいひ知れない音を立てゝ流れてゐます。先生はその音をたゞだまつて聽いてゐました。何を聽いてゐたのでしょうか?
 北上川をへだてゝ北上山脈は目の前に展開しています。夏の暑い眞晝むくむくと湧き上がる入道雲を、頭上に押して來る時もだまつて見てゐました。この建物の前の雑木林が赤くなる秋の夕映へもだまつて見てゐました。また裏の杉林を北風が少しの隙を急いで通り過ぎる音もだまつて聽いてゐました。
 かうして四季の景色の變つて行くのを眺めながら、先生は黙々と考へてをられたやうでした。たゞ先生は一番その家に居て嬉しかったのは、四季ともに共通にれた朝を北上山脈の頂上から、新しい空を破つて静かにのぼる太陽を見た時です。その時は何をやめてもまばたき一つせず、ぢつと見つめ朗々とした聲を張り上げて法華経を讀上るのでした。静かな朝の新しい空氣に響いて北上川を越へ杉林を渡り流れていくのです。そして初めてここかしこに鶏の聲はあがり、遠く路を行く荷車の音が聞こえて來るのでした。

     <『四次元 7号』(宮沢賢治友の会 May-50)より>
 この部分からは、下根子桜での賢治のたたずまいが生き生きと垣間見えてくる。下根子桜に寄寓していた千葉は賢治の素振りをじっと観察していたのだろう。
 さて、ここまで千葉のことを調べてきてすっきりしないことの一つに、千葉は下根子桜で賢治と一緒に生活していた期間を明らかにしていないということがある。穀物検査所で千葉が賢治と初め出会った月日とか、初めて豊沢町の賢治の家を訪れた月日ははっきり判るのにである。聞くところによると千葉が下根子桜に寄寓していたのはこの年(大正15年)の前半の半年らしいが、一体いつ頃からいつ頃まで千葉は下根子桜に寄寓していたのだろうか。この文章の中に”春雨が長く續いたために増水した北上川の流れの音を賢治はたゞだまつて聽いてゐました”と千葉が書いてあることから、このとき既に千葉は下根子桜にもう寝泊まりしていたと考えて良いのだろうか。

 では、引き続き「宮沢先生を追つて(三)」を見てみよう。
 大櫻の家は先生が最低生活をされるのが目的でしたので、台所は裏の杉林の中の小さい掘立て小屋を立て、レンガで爐を切り自在かぎで煮物をしてをられました。燃料はその邊の雑木林の柴を取つて來ては焚いてをられました。食器も茶碗二つとはし一ぜんあるだけです、私が炊事を手傳ひましたが毎日食ふだけの米を町から買つて來ての生活でした。…(中略)…朝早く起きて必ず二階に行き、北上山脈から出る太陽を待つて拜むのが毎日の日課になつてゐました。この土間式もあとで廢止して二階だけは疊にして書齋兼寝室としました。
 朝食も詩にあるとほり少々の玄米と野菜と味噌汁で簡単に濟ませ、それから近くの草原や小さい雑木のあつた處を開墾して、せつせつと切り拓き色々の草花や野菜等を栽培しました。私は寝食を共にしながらこの開墾に從事しましたが、実際貧乏百姓と同じやうな生活をしました。汗を流して働いた後裏の台所に行つて、杉葉を掻き集めては湯を沸かして呑む一杯の茶の味のおいしかつたこと、これこそ醍醐味といふのでせう!時には小麦粉でダンゴを拵へて焼いて食べたこともありました。毎日簡單な食事で土の香を一杯胸に吸ひながら働いたその氣分は何ともたとへやうのない愉快さでした。開墾した畑に植えたトマトが大きい赤い實になつた時は先生は本當に嬉しかつたのでせう。大きな聲で私を呼んで「どうですこのトマトおいしさうだね」「今日はこのトマトを腹一杯食べませう」と言はれ其晩二人はトマトを腹一杯食べました。しかし私はあまりトマトが好きなかつたのでしたが、先生と一緒に知らず識らずのうちに食べてしまひました。翌日何んとなくお腹の中がへんでした。先生が大櫻にをられた頃には私は二、三日宿つては家に歸り、また家を手傳つてはまた出かけるといつた風に、頻りとこの羅須地人協會を訪ねたものです。

     <『四次元7号』(宮沢賢治友の会 May-5)より>

 この後半部分からは、私は新たに次の2点を知ることが出来た。
 その一つ目は、一般に賢治が下根子桜に自炊農耕生活しようと思った理由やその目的は今一つはっきりしていないのではなかろうか今まで思っていたが、千葉が賢治から聞いていたであろうそれは
  ”最低生活をするのが目的”
だったということを知ったことである。宜なるかなと思った。たしかに、下根子での生活はまさしくそのとおりだったはずだからである。
 二つ目は、千葉が下根子桜に寄寓していた期間の寄寓の仕方が分かったことである。長期間連続して寝食を共にしていたわけではなく、下根子櫻に二、三日泊まっては千葉の家に戻って家の仕事を手伝い、また泊まりに来るという繰り返しであったのだ。  
 なお、千葉は炊事の手伝いだけでなく開墾も手伝ったと云うことなどに鑑みれば、このときはまだ穀物検査所に勤めたいたのだろうかという疑問も湧いてくる。

 この「宮澤先生を追つて(三)」はまだ続き、宮澤賢治が白鳥省吾と会う約束をしておきながら千葉に断りに行かせたという例のエピソードがあるのだが、長くなったのでそれは次回へ。

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