みちのくの山野草

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『宮澤賢治研究3』(昭和10年8月)

2021-04-02 12:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
【東北砕石工場技師時代の賢治(1930年頃 撮影は稗貫農学校の教え子高橋忠治)】
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>

 さて、では今度は『宮澤賢治研究3』(昭和10年8月)からである。そしてこの目次は下掲のとおりだから、あまり期待できそうにはない。


 そして実際、やはりこの『宮澤賢治研究3』の中でも、東北砕石工場技師時代の賢治や石灰についてはの言及は一言もなかった。
 したがって、昭和10年8月頃になっても、賢治の東北砕石工場技師時代や賢治の石灰施用の推奨はそれほどは重要視も評価もなされていなかった、ということになりそうだ。

 なお改めに気になったのが、26pに「吉野信夫氏宛 昭和三年一月十六日」書簡が載っていたことである。ちなみにその内容は、
新年おめでたう存じます。お詞の詩らしきもの、とにかく同封いたしました。
他にぴんとした原稿澤山ありましたらしばらくお取り棄てねがひます。
病氣も先の見透しがついて參りましたし、きつと心身を整へて今一度何かにご一諸いたしますから。乍末筆新歳筆硯の御多祥を祈り上げます。
というものである。ではなぜこの書簡が気になったのかというと、以前に〝2697 10回目の上京の別な可能性(補足)〟で投稿したような問題点があったからだ。
 そこで整理してみると、以前に調べた際にはこの書簡についての日付はそれぞれ、
 ・『宮澤賢治全集別巻』(筑摩書房、昭和18年2月)73pでは昭和三年一月十六日
 ・『宮澤賢治第十一巻』(筑摩書房、昭和32年2月)にはこの書簡は載っていない。
 ・『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著、昭和47年5月)257pでは昭和三年一月十六日
 ・『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房、昭和49年12月)421p~では昭和年一月十六日
 ・『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房、平成7年12月)427p~では昭和年一月十六日
であったのだが、この度、
 ・『宮澤賢治研究3』(草野心平編、昭和10年8月)26pでは昭和三年一月十六日
ということを知ったので、これが「初出」であると言えそうだ。よって、
    論考における資料としてはこの『宮澤賢治研究3』の日付「昭和三年一月十六日」を軽視できない。
ぞ、と私は認識した次第だ。つまり、昭和8年ではなくて、昭和3年であることの方の蓋然性が極めて高いということだ。もう少し説明を付け加えると、この書簡は昭和3年1月16日のものであり、この頃賢治は「病氣も先の見透しがついて參りました」ということであり、この頃までの賢治は「病気」であったという蓋然性が高く、澤里武治の証言、
はやはり正しかったと言えそうだ。

 というのは、澤里武治は
 その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。
 その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
 セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私ひとりで、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒い腰かけの上に先生と二人ならび汽車を待っておりましたが、先生は
『風邪をひくといけないから、もう帰って下さい。おれは一人でいいんです』
 再三そう申されましたが、こん寒い夜に先生を見すてて先に帰るということは、何としてもしのびえないことです。また一方、先生と音楽のことなどについて、さまざま話し合うことは大へん楽しいことです。間もなく改札が始まったので、私も先生の後について、ホームへ出ました。
とも証言しているのだから、賢治が11月に「セロを持って上京」して、「予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました」ということであれば、まさに昭和3年1月頃、賢治は病気になって花巻に戻っていたことになるからである(前掲の太字部分と、この太字部分は符合しているということである)。
 どうやら、先の〝私見・大正15年12月2日の真実〟の記述内容は「私見」ではなく、客観的にも正しいのかもしれない。延いては、現在の通説である次の「通説○現」、
 大正一五年
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。
……………○現
は成り立たなくなる。そして、「宮澤賢治年譜」には次のような二つの修訂が必要となったようだ。

 まずその一つ目は、大正15年12月2日についてせいぜい言えることは、柳原の証言に基づいて、
 一二月二日(木) 上京する賢治を柳原も澤里も見送ったと見られる。
ということである。もちろんこの際に賢治はチェロを携え上京した訳ではないし、はたして霙が降っていたかどうかもわからないはずである。
 その二つ目は、「宮澤賢治年譜」に昭和二年のこととして、
一一月頃 チェロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。
というように、大正15年12月2日の「通説○現」に、
    少なくとも三か月は滞在する
を付け加えた上で、昭和2年の11月頃の霙の降る日の出来事ととしてここに移動させなければならない。

 以上のような二つの修訂が必要なのではなかろうか。

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