みちのくの山野草

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『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭和14年9月)の「追想」から

2021-04-09 12:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
【東北砕石工場技師時代の賢治(1930年頃 撮影は稗貫農学校の教え子高橋忠治)】
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>

 では今回は『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版、昭和14年9月)の「追想」からである。
 まず見つかったのは、関豊太郎の「宮澤賢治氏に対する追想」の中の次のような記述である。
 先生(私)が盛岡に居られた際、しきりに勸誘された石灰岩末を作製して賣出さうと思ふが、さうして良からうかとの問合せに接した。私は私の宿望が遂げられることになるので、これほど嬉しいことはないから、遠慮なく着々實行されよと返事して置いた。
             〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版、昭和14年9月)309p〉
 そしてこの関の追想は、例の昭和6年2月25日付関宛賢治書簡と符号している。ちなみに、同書簡で賢治は、
 私に嘱託として製品の改善と調査、広告文の起草、照会の回答を仕事とし、場所はどこに居てもいゝし、年給六百円を岩末で払ふとのことでございます。それで右に応じてろるしうございませうか。農芸技術監査の立場よりご意見お漏し下さらば何とも幸甚に存じます。尚石灰岩末の効果は専ら粒子の大小にあると存じますが、稲作などには幾ミリ或はセンチぐらいの篩を用ひてよろしうございませうか。いづれにせよ夏までには参上拝眉いたしたく紙面を以て失礼の段は重々お赦しねがひ上げます。
             〈『新校本 宮澤賢治全集〈第15巻 下〉書簡 本文篇』(筑摩書房)〉
と認めているからである。
 そこで私は、賢治が生涯石灰にこだわり続けたのは恩師の関豊太郎に負うところが大だったのだということを改めて確信した。
 
 次に「石灰」についての言及があったのが、富手一の追想「宮澤先生」であり、
 之から造る庭園の土地改良を指導されることになり、再三温泉に來られ、自分がその助手を云ひつかり親しくお話を承る樣になつた。先生の設計に依り石灰岩沫(ママ)、堆肥糠などドシドシ鋤き込まれて、土壌が次第に肥えて來る。松も檜葉も櫻も元氣が增して來るのが目立つ樣になつた。
             〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版、昭和14年9月)421p〉
 ということで、ここにも石灰岩抹が登場していたが、それは稲作に対してのものではなかった。

 それから、「肥料石灰に就て」(酒井生補筆)というものがあり、
 施肥原理とあるのは羅須地人協会で使用された石灰岩の施肥の図解です。
             〈同461p〉
と述べ、同書はその
【「石灰岩の施肥の図解」の写真<*1>】

をその後の口絵に載せていた。もちろんそれは、この右側の「図解」のことであり、いわゆる〔教材用絵図 五〇〕のことである。したがって、その施肥に対しての定性的な理解は出来るが、定量的なところまでは難しい。まして、これは水稲に対しての図解ではない。

 以上が、「追想」の部において見つかった石灰に関しての言及の全てである。しかしこれらはいずれも、直接稲作に関わるものではなかった。また、東北砕石工場技師時代の賢治についての言及は見つからなかった。

 従ってここまで調べてきたことから現時点で言えることは、東北砕石工場技師時代の賢治に関しても、石灰に関しても核心に触れるものは未だ見つかっていないから、この時点(昭和14年9月頃)になっても、これらのことは重要視されていたとは言えないということである。

 なお、追想の中に白藤慈秀の「宮澤賢治の生活諸相」というものがあり、その中に政次郎に関して、
 父君は佛學精進且つ篤信の人格者で全町の信望をあつめられてゐられる方であるから賢治君の動作に對しては勿論總ての物事に動じない程に達観してゐられる、仏教の因縁妙理の上に立つて人生を諦觀し、大雅量の方であるが、たゞ一度父君の輕い不滿の言葉を耳にしたことを今も記憶している、それは『賢治の一徹の考へは、賢治としては最善の考へだと思ふてゐるに相違ないが、親から見れば、その所作は、佛教の所謂聲聞縁覺の二乘の考へで、大乘の考へではない』と言はれた、こゝに父君の深い深い批判が含まれてゐる。僕は長い間父君の知遇を得、折々訪問しても、敢て不滿を耳にしたことはないが、只此の一事は今尚耳底にのこつてゐる。
             〈同438p~〉
という白藤の追想があったので、私はこれが気になった。それは特に、
 賢治としては最善の考へだと思ふてゐるに相違ないが、親から見れば、その所作は、佛教の所謂聲聞縁覺の二乘の考へで、大乘の考へではない。………①
に対してである。それは、父政次郎は「毎年夏になると、大沢温泉で夏期仏教講習会というものを開いていた」というほどの「熱心な浄土真宗の信者」であったというし、白藤慈秀も願教寺の院代も務めた人物であったから、この〝①〟の持つ意味は重い。つまり、父のこの一言は賢治の実態であったという蓋然性が高かそうだ。 

<*1:投稿者註> 後で気付いたことだが(1921/4/4)、この左側は賢治の設計した〔施肥表A〕であり、「昭和六年度施肥表」と書いてある。つまり、東北砕石工場技師時代の頃に書いた肥料設計書だ。ではこれは番号は何番のものかというと直ぐ判った、〔二三〕である。なぜなら、今明らかになっている〔施肥表A〕は全部で23枚あるのだが、昭和6年度用と明記しているのものは一枚しかなかったからだ(実際。記入されている数値も一致している)。ちなみに、『新校本 宮沢賢治全集〈第14巻  雑纂〉本文篇』の125pにこれは載っている。
【〔施肥表A 二三〕】

 そして私は、「やはりな」と呟いた。というのは、これは東北砕石工場技師時代の頃に書いた肥料設計書なのにも拘わらず、「石灰岩抹」の覧には数値の記入はなかったからだ。つまり、
 東北砕石工場技師時代であっても、水稲の肥料設計に石灰岩抹が欠かせないという認識は賢治にはなかった。
と判断できる。

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