みちのくの山野草

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農民に幸せな生活を送ってほしい?

2018-11-30 10:00:00 | 蟷螂の斧ではありますが
《「脱皮したばかりのカマキリ」振りかざす斧も弱々しい》(平成25年7月26日撮影)

鈴木
 では今度は、「賢治をヒーロー扱いする児童書」の231p~の次の記述についてだ。
 トシの死後、賢治は農学校の教師をやめました。農民に幸せな生活を送くってほしい。そのためには、自分も農民になろうと考えたからです。
と断定している。私はこの断定の仕方に二の句が継げなかった。
荒木
 そりゃ、何でだ。
吉田
 そりゃ、そのように退職の理由を推測している人もあるが、色んな推測も他にある。定説といえるものさえもないのに、この「賢治をヒーロー扱いする児童書」の執筆者はこれだと断定しているからだよ。
荒木
 よくもまあ、純真な子どもたち向けの本でそんなことをやるもんだ。良心の呵責は感じないのだべが。
吉田
 おそらく、子どもたちに対してはその方がわかりやすいと執筆者は考えてのことなのだろうが、もしそうだったとすれば、物書きとしての自分を根底から否定する行為だ、と僕は言いたい。
鈴木
 では少し検証してみよう。そのためにまず、賢治自身が当時どんなことを考えていたかを知るために、関連する証言や書簡等を時系列に従ってその内容を簡潔に表して並べてみる。だいたい以下の通りとなる。
◇大正14年2月頃:教え子松田浩一の証言
 先生は「教師はじめじめしていやだ。おれはやめることだが、家から逃げて桜さ移るから皆遊びにきてくれ」と言っていた。
◇大正14年4月13日付杉山芳松宛書簡
 わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしてゐるわけに行きませんから多分は来春はやめてもう本統の百姓になります。そして小さな農民劇団を利害なしに創ったりしたいと思ふのです。
◇大正14年6月25日付保阪嘉内宛書簡
 来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます
◇大正14年6月27日付齋藤貞一宛書簡
 わたくしも来春は教師をやめて本統の百姓になります
◇大正14年12月1日付宮澤清六宛書簡
 この頃畠山校長が転任して新しい校長が来たり私も義理でやめなければならなくなったりいろいろごたごたがあったものですからつい遅くなったのです。
◇大正14年12月23日付森荘已池宛書簡
 ご親切まことに辱けないのですがいまはほかのことで頭がいっぱいですからしばらくゆるして下さいませんか。学校をやめて一月から東京へ出る筈だったのです。延びました。
◇大正15年1月15日に関する証言
 宮澤家の別荘を改修:大正15年1月15日(金)に、八重樫倉蔵、民三の兄弟大工に頼んで下根子桜にあった宮澤家の別荘を改修した。
◇大正15年3月頃:愛弟子柳原昌悦の証言
 職員室の廊下で掃除をしていたら、「いや、おれ今度辞めるよ」とこう言って鹿の皮のジャンパーを着て、こう膝の上にこうやった、あの写真の大きいやつを先生からもらいました。
◇大正15年3月の春休み:同僚堀籠文之進の証言
 大正十五年三月の春休みに入ってから、――こんど、私学校をやめますから……とぽこっといわれました。学校の講堂での立ち話でした。急にどうして、また、もう少しおやりになったらいいんじゃないですか、といいましたら、新しく、自営の百姓をやってみたいからといわれました。
◇愛弟子菊池信一の証言
 高野主事と議論したことが原因のようだが、国民高等学校の卒業式が大正15年3月27日に賢治は同日退職しているよ。この年の四月から、花巻農学校が甲種に昇格して生徒が増加するのに、退職するのはおかしいと思っていた。
◇同僚白藤慈秀の証言
 宮沢さんはいろいろの事情があって、大正十五年三月三十一日、県立花巻農学校を依願退職することになった。あまり急なできごとなので、学校も生徒も寝耳に水のたとえのように驚いた。本意をひるがえすようにすすめたけれども聞きいれられなかった。退職の理由は何であるかとといただす生徒も沢山居たが、いまの段階では、その理由を明らかに話されない事情があるからといって断った、という。
◇大正15年4月:教え子小田島留吉の証言
 花巻農学校の入学式の日に、「私は、今後この学校には来ません」という賢治自筆の紙が廊下と講堂の入口に貼ってあった。
◇大正15年4月:愛弟子柳原昌悦証言
 私たちが二年生になるとき、何人かが中心になったと思いますが、鼬幣の稲荷さんの後ろの小高い所ある小さな神社の境内に集まって、宮沢先生退職反対のストライキ集会を開いたのでしたが、宮沢先生の知るところとなり「おれはお前たちにそんなことされたって残るわけでもないから、やめなさい」との一言で、それはまったく春の淡雪のように、何もなかったかのようにさらりと消えてしまいました。
荒木
 な~んだ、「農民に幸せな生活を送くってほしい。そのためには、自分も農民になろうと考えたからです」ということだが、「農民に幸せな生活を送くってほしい」ので、ということを裏付けることができそうなものは何一つないじゃないか。
吉田
 そうだな。「本統の百姓になります」とか「自営の百姓をやってみたい」と言っていたようだが、これは「農民に幸せな生活を送くってほしい」ということとは無関係なことだし、「教師はじめじめしていやだ。おれはやめることだが、家から逃げて桜さ移るから皆遊びにきてくれ」とか、「わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしてゐるわけに行きませんから多分は来春はやめて」ということからは逆に、「農民に幸せな生活を送くってほしい。そのためには、自分も農民になろうと考えたからです」という断定は導き出せないということが示唆されるだけだ。
鈴木
 そしてこれらにかてて加えて次の書簡、
◇大正15年4月4日付森荘已池宛書簡
 お手紙ありがたうございました。学校をやめて今日で四日木を伐ったり木を植えたり病院の花壇をつくったりしてゐました。もう厭でもなんでも村で働かなければならなくなりました。東京へその前ちょっとでも出たいのですがどうなりますか。
            <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
を併せて考えてみれば、次のような結論を導かざるを得ないと私は考えている。
(ア) 少なくとも大正14年の2月頃には花巻農学校の教員をしていることに対する不満を公言するようになり、その職を辞して大正15年の春には「本統の百姓」になることを考え始めていた。
(イ) ところが、14年12月1日付宮澤清六宛書簡「私も義理でやめなければならなくなったりいろいろごたごたがあった」ということからも推察されるように、同年11月中旬に行われた奇妙な校長人事(年度途中にもかかわらず校長の人事があり、それも花巻農学校と東白河農蚕学校との間の校長入れ替えという奇妙な人事)が、さらに賢治の花巻農学校の退職に何らかの影響を与え、それを前倒しすることを賢治が考えていたであろうことが否定できないことがわかる。
(ウ) そして、大正14年12月頃の賢治は、学校をやめて一月から東京へ出ることを考えていた。そしてその時期は延びてしまったが、森荘已池宛書簡の中の「東京へその前ちょっとでも出たい」ということから明らかなように、羅須地人協会に移り住んでからもそれを諦めていなかった。つまり、羅須地人協会に移り住んで、そこでひたすら「本統の百姓」に専心しようとしていたわけではないことが解る。上京することへの絶ちがたい強い思いがずっと続いていた。
(エ) 大正15年初め頃既に、農学校を辞める辞めないはさておき、賢治は豊沢町の実家を出て下根子桜の別荘に移り住もうと心に固く決めていたことはほぼ間違いなかろう。さりながら、賢治の花巻農学校の退職は年度末が追し詰まってからの唐突で衝動的な退職劇であったし、その退職理由もどうやらすっきりしたものではなかったと言わざるを得ない。

 なお、この他に考えなければならない大きな一つとして、弟清六が除隊となり、家業を引き継ぐことになったことがあるが、その点についてもう少し調べてみたいので今後の課題だ。
荒木
 どうやら、賢治は「本統の百姓になります」と言ってはいたものの、そのための周到な準備と綿密な計画があり、 しかも確たる見通しがあって職を辞したとは言えそうにないということか。平たく言えば、行き当たりばったり、あるいは成り行きで辞めてしまったという可能性も否定できないということか。
 今度は眉唾だとは言わないが、「農民に幸せな生活を送ってほしい」からだったという理由は「?」付きということか。
吉田
 つまるところ、少なくとも「農民に幸せな生活を送くってほしい。そのためには、自分も農民になろうと考えたからです」とまでは言い切れないので、このようなことを純真な子ども向けの本に断定表現で書くということは、子どもたちに対する背信行為と言えなくもない、とな。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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