みちのくの山野草

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1950 宮澤賢治の下根子桜時代(昭和2年)

2011-01-16 09:00:00 | 賢治関連
 農村文化の創造に努む
         花巻の青年有志が 地人協會を組織し 自然生活に立返る
花巻川口町の町會議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の青年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化のに對抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである、目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画で羅須地人協会の創設は確かに我が農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目を惹いてゐる(写真。宮澤氏、氏は盛中を経て高農を卒業し昨年三月まで花巻農學校で教鞭を取つてゐた人)
          <昭和2年2月1日付 岩手日報より>

 では今回は、宮澤賢治下根子桜時代の中の昭和2年の「事実」をリストアップしてみたい。
 なお、「校本宮澤賢治全集14巻」(筑摩書房)、「宮澤賢治」(佐藤隆房著)、「私の賢治散歩」(菊地忠二著)などを基にしている。

<1927年(昭和2年)>
1月 5日 伊藤熊蔵、竹蔵来訪、中野新佐久往訪。
1月 7日 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤直美等来訪。
1月10日 羅須地人協会講義開始。農業ニ必須ナル化学ノ基礎
1月20日  〃 土壌学要綱
1月30日  〃 植物生理学要綱 上
2月 1日 2/1付け岩手日報夕刊に『農村文化の創造に努む』という記事掲載(ブログ先頭の記事)。
     (この新聞記事によって音楽練習会のメンバーに迷惑がかかることを恐れてこの集まりを解散)
2月10日 羅須地人協会講義 植物生理学要綱 下
2月18日 岩手日報記事に2/1付けの記事を受けて「農村文化について」という投書あり。
2月20日 羅須地人協会講義 肥料学要綱 上
2月28日    〃       〃        下
3月 4日 湯口村の高橋末治ら6人、地人協会へ入会。
3月 8日 松田甚次郎の訪問を受ける
3月20日 羅須地人協会講義 「エスペラント」「地人芸術概論」
春頃  労農党稗貫支部事務所として宮沢右八の長屋を借り受けてやる。
春頃(3月頃?) 花巻警察署刑事の事情聴取を受ける。
4月30日 藤原嘉藤治に菊池清松を紹介。
5月末頃 花巻温泉南斜花壇に花の苗を植える。
6月末頃 小原忠来訪。
     (賢治は『警察に引っぱられるかもしれない』ととりつくしまもないほどの剣幕だったという)
6月末  肥料設計2000枚を超える。
7月中旬 盛岡測候所で記録を調べて、指導した農家に対して天候不順の対策を講じる。
8月 8日 松田甚次郎の訪問を受ける。
夏頃から〔推定〕高瀬露しばしば来訪。
10月頃  石田興平を宮澤家から花巻病院へ案内、下根子桜にも案内。
11月   藤原嘉藤治と小野キコの結婚式参列。
11月1日~3日 東北菊花展出品、審査、菊の句の短冊を書き入賞者に与える。

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