みちのくの山野草

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1948 宮澤賢治の下根子桜時代(大正15年)

2011-01-15 09:00:00 | 賢治関連
   新しい農村の建設に努力する
         花巻農學校を辞した宮澤先生
 花巻川口町宮澤政治郎氏長男賢治(二八)氏は今囘縣立花巻農学校の教諭を辞職し花巻川口町下根子に同志二十餘名と新しき農村の建設に努力することになつたきのふ宮澤氏を訪ねると
 現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へられます、そこで少し東京と仙台の大學あたりで自分の不足であった『農村経済』について少し研究したいと思ってゐます。そして半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈會の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一囘位もよほしたいとおもつてゐます幸同志の方が二十名ばかりありますので自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないしづかな生活をつづけて行く考えです
と語つてゐた、氏は盛中卒業後盛岡高等農林學校に入学し同校を優等で卒業したまじめな人格者である

   <『新しき農村の建設』の記事(大正15年4月1日版岩手日報より)>

 では今回は、宮澤賢治下根子桜時代の中の大正15年4月~12月迄の「事実」をリストアップしてみたい。
 なお、「校本宮澤賢治全集14巻」(筑摩書房)、「年譜宮澤賢治伝」(堀尾正史著)、「宮澤賢治」(佐藤隆房著)、「私の賢治散歩」(菊地忠二著)などを基にしている。

3月31日 三級俸(130円)を支給され、花巻農学校依願退職。
4月 1日 下根子桜の別宅で独居自炊生活に入る。  
     (独居?←一時期半年ほど千葉恭が同居している)
  〃  岩手日報に『新しき農村の建設』記事が出る。
     (このブログの先頭の記事である)
     以後付近の開墾農耕に従事。
4月23日 詩の話を伊藤忠一にする。
     (おそらくこれが羅須地人協会としての会合であろうと推測される)
5月15日 斎藤宗次郎の訪問を受ける。
 〃  レコード・コンサートを始めた第一回目
     (伊藤忠一の談話による)
5月27日 農学校卒業生有志らと楽団を結成し演奏練習(以後毎週火曜日夜行う)   
6月末  菊池信一来訪。
6月   「農民芸術概論綱要」を書く。
7月25日 白鳥省吾等の訪問予定であったが、断りの使い(寄寓していた千葉恭)を出す
8月   求めに応じて無料花壇設計工作、夜は読書、作詩、音楽の勉強。
8月23日(旧盆の中日7月16日) 羅須地人協会設立。
     (あくまでも宮澤賢治の個人的な構想による設立決定)
8月のある3日ヶ間 妹シゲ、その長男純蔵、末妹クニらと八戸方面小旅行。
10月14日(推定) 安藤忠喜の来訪。
11月22日 案内状発送(伊藤忠一に配布依頼)
11月?日 小菅健吉来訪。
11月29日 羅須地人協会としての最初の集会
12月 1日 羅須地人協会定期集会
12月 2日 チェロを持って上京。
      (澤里武治独り見送る)
12月 3日 着京神田錦町上州屋に下宿。
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席。
12月15日 政次郎に200円の送金を依頼。
12月18日(または同20日?) 駒込に高村光太郎を訪ねる。29日帰郷。
12月25日 松田甚次郎の訪問を受ける。→上京中なので要検証
      (↑『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山書房)より)
12月29日 帰花

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