みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

2435 陸前高田の今(11/24)

2011-11-25 09:00:46 | Weblog
 今回のボランティアは陸前高田であった。陸前高田でのそれは初めてである。
 その被災については多くのメディアで報道されているから理解していたつもりであったが、現地に行ってみると本当に壊滅状態であったということをまざまざと見せつけられた。かつて知ったる賑わいを見せていたあの高田の街並みの形跡は見渡す限りどこにも何もない。〝何もない〟というその言葉が、私がその一帯の写真を撮ることを拒絶していた。
 亡くなられた方々のご冥福を祈り、被災された方々にお見舞いを申し上げるしかなかった。

 私たちの活動場所は陸前高田市広田長洞という場所であった。
《1 海沿いの長洞》(平成23年11月24日撮影)

《2 この集落の倒壊流出家屋は少ないということではあったが》(平成23年11月24日撮影)

《3 数少ない田圃も被災、表土を削る重機》(平成23年11月24日撮影)

が見えるがその向こうに見える
《4 ガードレールの手前、青い一輪車が見える場所が活動場所》(平成23年11月24日撮影)

《5 この写真に見えるのがそのガードレール》(平成23年11月24日撮影)

である。この写真の中央に見える家の玄関の軒まで津波が襲ってきたという。この家のご主人は、この一帯は多くの家屋は高台にあるし海が見下ろせるので不幸中の幸い、亡くなった方は一人だけであったと言っていた。
《6 今回はこのアスファルト道路に沿ったこの農道》(平成23年11月24日撮影)

の瓦礫処理であった。
 この写真にはそれらは見えないが、それは処理が終わった後だからである。瓦のかけらや窓ガラスの破片が沢山あった。場所によって掘り返してそれらを取り除いた。限定的にではあるが〝人間は負のエントロピーを生み出せる〟ということに一寸感動。
 昼食は
《7 海辺》(平成23年11月24日撮影)

に行ってそこで食べることにした。
《8 そこから振り返ってみた活動場所》(平成23年11月24日撮影)

こうし見渡してみると、春3月に何もなかったよう思えてしまうほどの穏やかな漁村であり
《9 大黒様の石像や金毘羅大権現の石塔などが安置されていた》(平成23年11月24日撮影)

《10 階段脇には美しい浜菊に似た花が咲いていた》(平成23年11月24日撮影)

浜菊の花は白だと思っていたが、こんな色のものもあるのだろうか。
 昼食後は
《11 しばし海原を眺めていた》(平成23年11月24日撮影)

《12 〃 》(平成23年11月24日撮影)

《13 〃 》(平成23年11月24日撮影)

《14 〃 》(平成23年11月24日撮影)

《15 〃 》(平成23年11月24日撮影)

《16 〃 》(平成23年11月24日撮影)

《17 海辺に押し寄せる白波》(平成23年11月24日撮影)

は途切れることなどなかった。

 今回も、遠くからも沢山の若者たちがボランティアに来ていた。そして気が付いた、当たり前のことかも知れないが、彼等はサボることなど全くせず黙々と働ていたことに。かつて若かりし頃の自分を思い返せば、その当時の私は奉仕活動の際にはちょっとサボろうかなどという不謹慎なことをたしか考えたことがあったような気がする。とても『今の若者は』などとは言えない。

 一方で、どうして大正15年に賢治は赤石村や不動村に支援の手を差し伸べることなどせずに、それどころか近くの若者たちを集めて夜な夜な素人楽団活動などに熱心だったのだろかということが、この若者たちの活動振りを見るにつけますます理解しづらくなってきた。  

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