《『宮沢賢治のことば』(本田有明著、サンマーク出版)》
ある方からこのブログの先頭に掲げたような『宮沢賢治のことば』(本田有明著)という本を勧められた。
その著書の「はじめに」には次のようなことが述べられていた。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテイル
有名な「雨ニモマケズ」の冒頭である。たとえ「宮沢賢治」を知らなかったとしても、この作品を知らない人はいないだろう。
そして、この一節を読むと、多くの人は次のように感じるのではなかろうか。
「そうか、この詩の作者である宮沢賢治という人は、そんなに強く清い人だったのか。からだは丈夫で、欲望はもたず、何事にも負けず、いつも静に笑っていたのか。私はこのようになれないな」
この詩に接した十代ころの私もそう思った一人だった。
しかし、最後まで読んでいくと、まったく違うことがわかる。
「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」
これが三十行に及ぶ「雨ニモマケズ」の最後だ。
書かれてあることはすべて、賢治本人の「願い」なのだ。
この詩を書きつけたとき、賢治に発表する意思はなかったと思われる。死後に発見された手帳の走り書きだからだ。だからこそ逆に自戒と願望が、これ以上ないほど素直に表現されているともいえるのだ。この詩が人の心を打つのは、そういう事情がある。
…(略)…賢治は決してスーパースターではない。私たちと同じ弱さをもつ生身の人間ののである。
国民作家として長く人気を保ってきた賢治だが、二〇一一(平成二十三)年になって、再び注目を集めるようになった。きっかけは三月の東日本大震災である。多くの犠牲者を出したこの大災害のあと、宮沢賢治の詩がさまざまなところで取り上げられた。
中でも震災発生の一か月後に、アメリカの追悼式典で英語訳「雨ニモマケズ」が朗読されたことは多くの国で報道され、広く感銘を与えた。私もこのことをニュースで知り、大きな励ましを受けた。賢治の他のことばも人々に元気を与えるのではないかと、本書の執筆を思いついたのはその日のことである。
<『宮沢賢治のことば』(本田有明著、サンマーク出版)より>
ここまで読んできて2つのことを思った。その第一は、この〝はじめに〟で
「雨ニモマケズ」に関して多くの人は次のように感じるのではなかろうか
という本田氏の見方に接してあることに気が付いた、ということである。
それは、はしなくも賢治の周辺を彷徨ったり調べ始めたりし出した私だったが、次第に賢治のことが客観的に見られなくなっていた自分がいた、ということに。言い方を変えれば、かつて「雨ニモマケズ」を通じて私が抱いていた賢治のイメージはたしかに本田氏の言うとおり
「そうか、この詩の作者である宮沢賢治という人は、そんなに強く清い人だったのか。からだは丈夫で、欲望はもたず、何事にも負けず、いつも静に笑っていたのか。私はこのようになれないな」
というようなものであったよな、ということに。
その第二は次のようなことであった。
実は外国で行われた東日本大震災追悼において「雨ニモマケズ」が朗読されたと聞いてはいたが、そうか米国等でも「雨ニモマケズ」は多くの人々に感銘を与えていたのかということをこの本で確認でき、そのことに感心した。のではあるが一方では、「雨ニモマケズ」が安易に扱われることには慎重であらねばならないのではないかということを思った。
かつて戦時下では、「滅私奉公」「欲しがりません勝つまでは」のスローガンと結びつけられて「雨ニモマケズ」は戦意昂揚のために国策的に利用されたと、小倉豊文や西田良子は指摘している。
また終戦直後には食糧が極端に不足していたとはいえ、あろうことか〝一日玄米四合〟が〝一日玄米三合〟に書き替えられた「雨ニモマケズ」は窮乏生活を耐えるために利用されたということは明らか。
そしてこの度の未曾有の東日本大震災にあたっての「雨ニモマケズ」の扱われ方である。
安易ではないとは思うが、困ったときの「雨ニモマケズ」頼み、であってはならないのではなかろうか。あくまでも「雨ニモマケズ」は賢治の願いであり、実践とは違うからである。
本日も三陸の被災地にボランティアに行ってくるが、そこでは
「人のために役立つことが嬉しい」
とか
「困っている人を助けるのは当たり前です」
と言って懸命に働く多くの若者たちが汗しているはずだ。彼等は爽やかであり、私には眩しく見える。
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