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2436 『宮澤賢治 雨ニモマケズという祈り』より

2011-11-26 08:00:00 | 賢治関連
《『宮澤賢治 雨ニモマケズという祈り』(重松・澤口・小松共著、新潮社)》 

 前回は、 この度の東日本大震災にあたって
 賢治の他のことばも人々に元気を与えるのではないかと
という想いで執筆したという本田有明氏の著書『宮沢賢治のことば』について少し触れた。
 それからは、それが実際には現地の被災者にどれだけの励ましとなり、どんな勇気を与えたのだろうかなどということに想いを巡らしていた。そんなところに、このブログの先頭に掲げたような本が目に留まった。
 特にそれはこの本の〝帯〟に、である。その〝帯〟にはご覧の通り
 「宮澤賢治なら、この震災の被災者にどんな言葉を手向けるのだろう」
とあったからだ。そして私は期待した、そこにはその〝言葉〟について多く語られているのではないかと。
 ではこの本の中に出てくる「雨ニモマケズ」及び「東日本大震災」に関する部分を抜き出してみたい。  

1.見返しには
 宮澤賢治の死後、メモやスケッチが記されたノート類が見つかった。うち一冊の手帳に「雨ニモマケズ」で始まる、よく知られた詩がある。今なお私たちの心に響くその一篇を、彼はどんな人生の中で書き留めたのだろう。
ということなどが書かれており、見返しの左側には「雨ニモマケズ手帳」の中の「雨ニモマケズ」の書き出しの2頁が開かれた状態での写真が載っている。
2.14pには
 賢治の詩とはあまりにも対照的な鈍色の風景である。
 しかし、そのくすんだ暗い色は、僕にはもう一つの風景を思い起こさせる。
 サハリンに発つ数日前まで、三陸地方を歩いていた。東日本大震災の被災地をテレビドキュメンタリーの取材で回ったのだ。瓦礫の山には色彩がなかった。…(略)…
 キツイ取材だった。肉体的にも、精神的にも。漁船が突き刺さった友人の家の前で、思わず落涙した。魚の腐乱臭と汚泥や重油のにおいが交じり合った異臭に頭がクラクラした。…(略)…
 取材の間、ずっと宮澤賢治のことを考えていた。『銀河鉄道の夜』にある<みんなのほんたうのさいわひ>という言葉が、頭の片隅から離れなかった。
 賢治が生まれた一八九六年には明治三陸大津波と陸羽地震の年で、没年の一九三三年には昭和三陸大津波が起きた。

3.16pには
 そして、僕は詩と同じ緑青色をしたオホーツクの海を見つめて、思う。
 宮澤賢治なら、この震災の被災者にどんな言葉を手向けるのだろう。直接の被災者だけでなく、それぞれの距離や立場で心に深い傷を負ってしまった一人ひとりに、賢治はどんな祈りを捧げるのだろう。大自然のもたらす理不尽に蹂躙された上に、原発事故という厄災まで抱え込んでしまったいま、宮澤賢治の読まれ方も変わろうとしている。

<註:「大自然のもたらす理不尽に蹂躙された上に、原発事故という厄災」についての私見を言わせて貰えば、これは逆であって「大自然のもたらす厄災に遭った上に、原発事故という理不尽に蹂躙された」だと思う。まさしく、今回の福島原発事故こそが拝金主義者のエゴによって被った庶民の〝理不尽〟であると私は思うからである。辛いことではあるが、自然現象に対して理不尽であるとは私はとても言えない。私は東電からは恩恵を被ってはいないが、自然からは言い尽くせないほどの恩恵を被っているからである>
4.20pには
誰でもが人生で一度はめぐりあう作家――。
宮澤賢治はそんな作家の一人だろう。
あなたには「風の又三郎」かもしれない。あるいは「雨ニモマケズ」かもしれない。

5.97pには
 二〇一一年三月十一日、東北地方の太平洋沖で、マグニチュード九・〇という巨大地震が起こった。岩手はもちろん、宮城から福島にかけての沿岸各地には、想像を絶する高さの津波が押し寄せ、多くの町が壊滅的な状況となった。
「こんなことが、ほんとうに起こるなんて」という言葉が、何度も口をついて出た。自分の人生において、こんなにも激しい災害に出会うことになろうとは。そうして賢治の人生に、思いを馳せた。

 なお、続いて明治及び昭和三陸大津波について語られているがこれは前述したことと重複するので割愛する。
6.116pには
 それにしても、自らの恋を童話化して堂々と新聞に載せるとは、賢治もなかなかやるものである。〔雨ニモマケズ〕などの印象から、物静かな聖人君子というイメージが強い賢治だが、実際にはむしろ人間らしく、感情を爆発させる一面もあった。
7.奥付の手前の頁には
 ここには「雨ニモマケズ」が最初から最後まで載せてある。
 さらに、東日本大震災で被害に遭った賢治の詩碑の写真が掲載されていて、その説明文は
 2011年3月、東日本大震災で津波の被害に遭った三陸鉄道島越駅舎脇の賢治の詩碑。橋脚が崩壊し、駅舎も流出し、辺り一帯も瓦礫化したがこの詩碑だけが残った。
というものであった。

 以上がこの本の中にあった「雨ニモマケズ」及び「東日本大震災」に関する部分の殆ど全てである…はずである。
 しかし残念ながら、私の読みが足りないせいだとは思うが、この本のサブタイトル
 「雨ニモマケズという祈り」
に対してこの本がどれだけ応えているのか、あるいはこの本にそれがどれだけ込められているのかということを私は充分には汲み取ることが出来なかった。
 それとも、「雨ニモマケズ」が賢治の「願い」であり「祈り」であるのと同じように、著者自身の「願い」や「祈り」をこの本に込めているということなのだろうか。そして、ただし問は発するがその答は読み手が自分で汲み取れということなのだろうか。
 でもできることなら、「宮澤賢治なら、この震災の被災者にどんな言葉を手向けるのだろう」と著者は発問しているのだから、著者自身が考えたその〝言葉〟をもっともっとこの本の中で述べた欲しかった。

 賢治は「雨ニモマケズ」に書いてあるように、あるいは書いているのだから、生前彼は困窮している人々や貧しい人々に対して多くの救いの手を差し伸べようとしていたはずだ。
 ならば、それはどのような手を差し伸べようとしていて、どのように行動したのかを教えて欲しい。そして、それらの賢治の実践に基づけばこの度の大震災に対して賢治はどのような言葉を手向け、どのように行動したのかを著者は自分の想いでいいから読者に語って欲しかった。
 例えば賢治が下根子桜の別荘に移り住んだ年、大正15年は稗貫郡や紫波郡は旱魃で大凶作だったので、とりわけ隣の郡内の赤石村や不動村などはほぼ飢饉に近かい惨状にあったので全国から陸続と支援の手が差し伸べられていた。そのとき賢治は具体的にはどんな支援をし、義捐をしたのかということを教えて欲しいし。そして、そのような賢治だからこの度の大震災ならばこうしたであろうということを語って欲しかった。

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