なぜ賢治はヒデリの時に涙を流さなかったのだろうか。
これが、賢治の周辺を彷徨ってみて抱く私の大きな疑問の一つである。そんな想いがいつもつきまとっていたある日、ある座談会で吉本隆明が次のような発言
をしていたことを知って私の中で何かがガラガラと音を立てて崩れてしまった。
一方このとき、伊藤忠一の次のような証言をもう一人の私は思い出していた。
これは常々私の頭の隅にいつも引っ掛かっていたものである。
そしてこの二つは私の中でおもむろにくっつき、やがて私は吹っ切れた。伊藤忠一がかく語り、吉本隆明さえもこのように言い切っているんだから、この二人の考え方と似た考え方を私がしていたとしてもそれはもう躊躇うことはないんだ、と。
実際賢治自身も後に、昭和5年3月10日付の伊藤忠一宛書簡で
と悔恨していることでもあり。
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これが、賢治の周辺を彷徨ってみて抱く私の大きな疑問の一つである。そんな想いがいつもつきまとっていたある日、ある座談会で吉本隆明が次のような発言
いや、そういう知識人問題には賢治はあてはまらないと思います。たとえば実際的な知識人活動の面で言えば、日本の農本主義というのは、あきらかにそれは、宮沢賢治が農民運動に手をふれかけてそしてへばって止めたという、そんなていどのものじゃなくて、もっと実践的にやったわけですし、また都会の思想的な知識人活動の面で言っても、宮沢賢治のやったことというのはいわば遊びごとみたいなものでしょう。「羅須地人協会」だって、やっては止めでおわってしまったし、かれの自給自足圏の構想というものはすぐアウトになってしまった。そのてんではやはりたんなる空想家の域を出ていないと言えますね。しかし、その思想圏は、どんな近代知識人よりもいいのです。
<『現代詩手帖 63’6』(思潮社)18p>をしていたことを知って私の中で何かがガラガラと音を立てて崩れてしまった。
一方このとき、伊藤忠一の次のような証言をもう一人の私は思い出していた。
協会で実際にやったことは、それほどのことでもなかったが、賢治さんのあの「構想」だけは全く大したもんだと思う。
<『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)35p>これは常々私の頭の隅にいつも引っ掛かっていたものである。
そしてこの二つは私の中でおもむろにくっつき、やがて私は吹っ切れた。伊藤忠一がかく語り、吉本隆明さえもこのように言い切っているんだから、この二人の考え方と似た考え方を私がしていたとしてもそれはもう躊躇うことはないんだ、と。
下根子桜時代の賢治の営為は巷間言われているようなものではなく、それほどのことでもなかった。
と判断していいのだと。実際賢治自身も後に、昭和5年3月10日付の伊藤忠一宛書簡で
たびたび失礼なことも言ひましたが、殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>と悔恨していることでもあり。
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