〈『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)〉
では、「東北砕石工場技師・宮澤賢治」はその後どのようなことに取り組むことになったのだろうか。
宮澤賢治の嘱託契約には販路の制限を含む次のような項目もある。
三、岩手県(小岩井農場及東磐井西磐井両郡ヲ除ク)・青森県・秋田県・山形県ノ宣伝ヲ宮沢ニテ行ヒ右ノ註文ニ対シテハ松川駅渡十貫ニ付二十四銭五厘ニテ宮沢ニ卸売スルモノトス 但工場ニ於ケル直接販売ハ十貫ニ付三十銭以下ニテ売ルコトヲ得ス
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』(筑摩書房)263p>そして、この項目が設けられた理由について佐藤通雅氏は、
宮沢家では現物をもらっても、一家で処理しきれるわけでない。いきおい販路をひろげて売り込みに精力をそそがざるをえなくなる。そうなると本社と花巻出張所で競合しないようあらかじめとりきめておく必要がでてくる。
<『宮澤賢治 東北砕石工場技師論』(佐藤通雅著、洋々社)121pより>と見ていて、たしかにこの見方には説得力がある。そしてこの項目に従えば、
岩手県(小岩井農場及び東磐井西磐井両郡を除く)・青森県・秋田県・山形県4県の宣伝活動をする。
ことも賢治の仕事の一つとなる。
なお、賢治と鈴木東藏は炭酸石灰の販路を「岩手県(小岩井農場及東磐井西磐井両郡ヲ除ク)・青森県・秋田県・山形県」にするということを取り決めたわけだが、佐藤氏はこのことに関して、
ただし、実際に活動しはじめると、賢治はとりわけ宮城県へのてこいれのために、そうとう奔走した。
<『宮澤賢治 東北砕石工場技師論』(佐藤通雅著、洋々社)125pより> と述べ、実際にはその取り決めと違ったところもあったということも指摘している。
ところで、この時の契約にはもう一項目あり、それは次のような内容であった。
四、炭酸石灰ノ需要期以外ハ壁材料ノ宣伝ニ努メ此レニ要スル資金ハ追テ協議ノ上之レヲ決スルモノトス
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』(筑摩書房)264p>つまり、賢治の職分としては前掲のイ~ハの三つと前掲の〝三、〟の4県下への宣伝の他にももう一つ、この項目に盛り込まれている「壁材料ノ宣伝」という職分も実はあったということがこれで知れる。したがって、賢治が昭和6年9月19日に40㌔もの重さの壁材料の製品見本をトランクにぎっしりつめて上京したということだが、それはこの項目の契約に沿って行われたことであったことがわかる。
となれば、これから賢治が行うことは以前はあれだけ嫌っていたはずの商業活動そのものであり、そこには営利を避けては通れないという現実の厳しさが待ち構えていたことになる。実際それは、例えば、「東北砕石工場技師時代」に詠んだはずの〔せなうち痛み息熱く〕の未定稿中の次の連、
この時雲はちゞれてひかり
外の面俥の往来して
雪はさびしくよごれたる
二月の末のくれちかし
営利卑賤の徒にまじり
十貫二十五銭にて
いかんぞ工場立たんなど
よごれしカフスぐたぐたの
外套を着て物思ふ
わが姿こそあはれなれ
<『校本宮澤賢治全集第五巻』(筑摩書房)897p~より>外の面俥の往来して
雪はさびしくよごれたる
二月の末のくれちかし
営利卑賤の徒にまじり
十貫二十五銭にて
いかんぞ工場立たんなど
よごれしカフスぐたぐたの
外套を着て物思ふ
わが姿こそあはれなれ
などがいみじくも語っていると私には思われる。しかも「二月の末のくれちかし」に注意すれば、昭和6年2月21日に契約書を交わしたしたばかりなのに、早くも同月末には賢治の心は苛まれ始めていたと。
そこで私は、契約内容とこの詩を併せ考えれば、どうやら賢治は早速我が身をかこっていたということが察せられ、賢治の心境や如何ばかりかと同情する。さりながら、先の契約内容からはおのずから、賢治は「東北砕石工場花巻出張所」の所長として商業行為を全うするしかないというところまで追い込まれ、これからは死にものぐるいでそれをやるしかないと覚悟せざるを得なかったのではなかろうかということも十分に考えられる。しかしもちろん、それは世間一般の常識からいえば、普通の大人には当然要請される生き方である。
そこで少し振り返ってみれば、羅須地人協会時代は理念だけが先走ってあえなく挫折したわけで、そこで行ったことは「虚業」であったが、昭和6年2月末からは「実業」に携わらねばならないという引導をこの時の契約で渡され、そう賢治は決意せざるを得なかったのではなかろうか。そしてこのように社会的な契約をした以上は、爾後、「東北砕石工場技師・宮澤賢治」は商業活動に邁進せねばならないことは当然の理である。その頃のそれ以前の賢治は、精神科医斎藤環氏の言うとおりまさに「ニート」状態であったから、さすがに35歳を目の前にしていつまでもこれまでのような全て親がかりの生き方はもはや許されないと、人生で初めて賢治は身につまされたのかもしれない。
そこで私は遅ればせながら気付いた、
東北砕石工場技師になって賢治は、生まれて初めて人並みの社会人としてのスタート台に立った。
と言えるのだいうことにである。どうやら、これが「東北砕石工場技師・宮澤賢治」誕生の大きな意味であるということになりそうだ。なお、なぜ「生まれて初めて」なのかというと、賢治はそれ迄は、仕事に就きながら貰った給料で自活したことは実質的になかったと言わざるを得ないからだ。もちろん、花巻農学校に勤めていた頃であれば自活していたと本当は言いたいところだが、その頃の賢治はかなりの高給取り(月給100円前後)<*1>であったものの、そのお金は沢山のレコード購入等のために使われたりして<*2>いて、その給料で賢治が自活していたとは言い切れないからである。
というわけで、ここまで調べてみた限りでは、先の
という私の判断がまちがっていないということをほぼ確信できた。それはおのずから、
東北砕石工場の嘱託となった賢治は、炭酸石灰販売等の猛烈サラリーマンになってゆくわけだが、それは当時の貧しい多くの農民を救うことを第一にしていたものではない。………◉
ということになる、ということも教えてくれる。<*1:投稿者註> 当時の「月給百円」という額はどれほどのものだったか。岩瀬彰氏によれば、当時のサラリーマンにとって「月給百円」はあこがれの額であったと言い、「月百円も遠い暮らし」という項の中で
「百円」以上を稼ぐサラリーマンは昭和初期の不景気下でも、そう苦しい生活をしていたわけではなかった。子供のいない新婚なら五十円でも生活できた時代だ。
〈『「月給百円」サラリーマン―戦前日本の「平和」な生活』(岩瀬彰著、講談社)63p〉ということである。
<*2:投稿者註> 『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞双書、昭和41年)によれば、
……奥寺もまもなく肋膜をわずらい、やがて結核になって学校へも出られなくなった。
何しろ国民保険も健康保険も組合もない時代だから、病む者損である。生活は苦しくなった。賢治はこの僚友へ月給の中から毎月三十円ずつとどけた。
…(投稿者略)…家へはどうせあとをつぐわけではなし、下宿代を払うのは当然ですといって二十円入れはしたが、なんとかうまいことをいってはそれをまきあげてしまい、家の方でもそれを承知でいた。父などはわざとカケにまけて金を出してやったものである。
つまり奥寺へ三十円、生徒への援助、レコード、本、浮世絵、その他使うことはいっぱいあってとうてい月給ではたりなかった。もらって三日もてばいい方だった。芳文堂のおやじから本代をツケにして現金を前借りするのも苦肉の策である。
〈『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞双書、昭和41年)162p〉何しろ国民保険も健康保険も組合もない時代だから、病む者損である。生活は苦しくなった。賢治はこの僚友へ月給の中から毎月三十円ずつとどけた。
…(投稿者略)…家へはどうせあとをつぐわけではなし、下宿代を払うのは当然ですといって二十円入れはしたが、なんとかうまいことをいってはそれをまきあげてしまい、家の方でもそれを承知でいた。父などはわざとカケにまけて金を出してやったものである。
つまり奥寺へ三十円、生徒への援助、レコード、本、浮世絵、その他使うことはいっぱいあってとうてい月給ではたりなかった。もらって三日もてばいい方だった。芳文堂のおやじから本代をツケにして現金を前借りするのも苦肉の策である。
あるいは、『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)よれば、
……大量にレコードを買ひます。月末の支拂いが百圓とか貳百圓とかまとまることも稀ではない。店の割合に高級な西洋音楽レコードをあまりに大量に賣るので、ポリドール會社の阿南という社長から「あのレコードは何れ方面に賣れて行くのか」と山幸商店に問合せがあつた程でありました。その時に、「あのレコードは農學校の宮澤先生に賣るのです」と囘答した處、ポリドール會社の社長から、賢治さんに丁寧なな奉書に認めた感謝状が來たものです。
〈『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)139p~〉ということであったという。
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なお、目次は次の通り。
〝「宮澤賢治と髙瀨露」出版〟(2020年12月28日付『盛岡タイムス』)
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