みちのくの山野草

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尋ね廻って知ったこと

2024-04-15 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)

 そして、いろいろと尋ね廻ってみたことによって知った千葉恭に関する事柄は以下のようなことなどであった。

・賢治と一緒に暮らしたことのある千葉恭の出身地は真城村折居(現奥州市水沢区真城折居)である。
・恭は大正15年6月22日付で穀物検査所花巻出張所を辞職、昭和7年3月31日に同宮守派出所に正式に復職。
・千葉恭は甚次郎を下根子桜の別宅で直に見たと言っているが、それが事実ならば昭和2年3月8日のことである。
・千葉恭は賢治から実家の田圃の〔施肥表A〕〔一一〕等を設計してもらった。
・千葉恭の三男滿夫氏は次のことを証言している。
*穀物検査所は上司とのトラブルで辞めたと父は言っていた。
*父は穀物検査所を辞めたが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないので賢治のところへ転がり込んで居候したようだ。
*賢治は泥田に入ってやったというほどのことではなかったとも父は言っていた。
*昭和8年当時父は宮守で勤めていて、賢治が亡くなった時に電報をもらったのだが弔問に行けなかったとも言っていた。
*父はマンドリンを持っていた。
*父(千葉恭)の出身地は水沢の真城折居である。
*賢治から父恭に宛てた書簡等もあったそうだが昭和20年の久慈大火の際に焼失してしまったと父は言っていた。
・千葉恭の長男益夫氏は次のことを証言している。
*父は上司との折り合いが悪くて穀物検査所を辞めた。
*父はマンドリンを持っていた。
*父はトマトがとても嫌いだった。
*真城の実家の近くに〝町下〟という場所があり、そこに田圃がありました。その広さ(8反)から言っても実家の田圃に間違いない。
・千葉恭の長男益夫氏の夫人が次のようなことを証言している。
*美味しそうに盛り合わせてトマトを食卓に出してもどういうわけかお義父さん(恭)は全然食べなかった。その理由が後で分かった。お義父さんが宮澤賢治と一緒に暮らしていた頃、他に食べるものがない時に朝から晩までトマトだけを食わされたことがあったからだった、ということでした。
*お義父さんは羅須地人協会に7~8ヶ月くらい居たんでしょう。

・同僚千葉啓氏の語る千葉恭
 なんと幸運にも、千葉恭と同じ職場に勤務したことがあるという方にも会うことが出来た。その方は奇しくも同じ姓の金ケ崎町の千葉啓氏という、大正7年生まれの方であった。千葉恭は明治39年生まれだから、大凡12歳年下の人である。
 そして千葉啓氏は、千葉恭とは
   1回目は、昭和11~14年頃に穀物検査所黒沢尻出張所(この時千葉恭は副出張所長)で、
   2回目は、昭和29~31年頃に食糧管理事務所和賀支所(この時千葉恭は和賀支所長)で
2度にわたって一緒の職場だったという。
 千葉恭の人となりについて啓氏は、
*いい人だった。
*偉ぶらなかった。
*酒なども深酒などしなかった(あまり飲まなかった)。
*研究などが好きな人であった。
ということなども教えてくれた。そして、千葉恭の写っている集合写真も見せくれた。この啓氏が語る千葉恭の人となりにつては、千葉恭の三男滿夫氏が「優しい親父だった。殴られたこともない」と語っていたことと符合すると思う。同じくその際に滿夫氏が「父は息子の私から見ても若い頃は今で言うイケメンだった」と語っていたが、滿夫氏のこの話と千葉啓氏の話そして今まで見た何葉かの千葉恭の写真から、千葉恭という人物は外見だけでなくその中身も素敵だったに違いない、と私は思った。
 また恭の職場での様子について啓氏からは、
*宮澤賢治と一緒に居たというようなことを聞いたことがある。
*宮澤賢治に関してはよく喋っていた。
という証言も得た。
 この当時、つまり千葉恭の食糧管理事務所和賀支所長時代(昭和29~31年頃)といえば『イーハトーヴォ復刊2号』、『同5号』にそれぞれ「羅須地人協会時代の賢治」、「羅須地人協会時代の賢治(二)」を載せている頃である。もっと正確に言うと、千葉恭と同じ役所に勤めていた飯森という人物から請われて、昭和29年12月21日に『宮澤賢治の會』が主催した例会で千葉恭は「羅須地人協会時代の賢治」という演題で講演をした頃である。
 一方で、三男滿夫氏にお会いした際に「父は賢治に関して語ることは少なかった」と語っていたが、千葉恭が和賀支所長の時代(千葉啓氏が2回目に同じ職場に勤めていた頃)であれば、この講演の関係もあったのであろうか、彼は職場ではある程度賢治に関することを喋っていたということになろう。

 そしてまた、<千葉恭 略年譜>は以下のようなものだった。
明治39年12月20日 真城村(現奥州市水沢区真城)に生まれる
大正10年4月(14歳) 水沢農学校入学 
大正13年3月(17歳)   〃  卒業
大正13年10月   岩手県穀物検査所花巻出張所着任、検査員
 〃  11月12日 同穀物検査所にて賢治と出会う
 〃  11月14日 夜、花巻農学校の賢治を宿直室に訪ね、その後やぶ屋へ
         以降2、3日位に1回の割で電話があり、農学校を訪ねる
大正14年(18歳)  岩手県穀物検査所花巻出張所検査員
 〃  10月20日 豊沢町の賢治宅訪問
大正15年6月22日 岩手県穀物検査所退職直後から下根子桜に8ヶ月余寄寓したと見られる
 〃  7月25日 賢治の代わりに、白鳥省吾の下根子桜訪問を謝絶するために盛岡に行く
昭和2年3月8日 下根子桜を訪ねた松田甚次郎を目にする
昭和2年春(推定) 下根子桜を去り実家に戻って帰農、「研郷会」を組織し、以後頻りに下根子桜訪問→研郷会にて伝達講習→賢治に報告
昭和7年3月31日 岩手県穀物検査所宮守派出所に正式復職
昭和8年7月31日~   〃    福岡出張所
昭和8年8月24日~    〃    宮守派出所
昭和9年(27歳)      〃   黒沢尻出張所立花二子兼更木派出所検査員
昭和12年(30歳)      〃  立花兼更木派出所検査員
昭和18年(36歳)      〃  久慈出張所検査技手
昭和20年(38歳)  久慈勤務、フェーン現象による大火で賢治からの手紙など焼失
昭和21年(39歳)  岩手県食糧管理事務所久慈支所長
昭和23年(41歳)      〃      気仙支所長
昭和25年(43歳)      〃      大船渡支所長
  〃  2月  「宮澤先生を追ひて」を著す(『四次元』)
  〃  3月  「宮澤先生を追つて(二)」を著す(『四次元』)
  〃  5月  「宮澤先生を追つて(三)」を著す(『四次元』)
  〃  6月  「宮澤先生を追つて(四)」を著す(『四次元』)
  〃  12月  「宮澤先生を追つて(五)」を著す(『四次元』)
昭和26年(44歳)   岩手県食糧管理事務所江刺支所長
  〃  2月  「宮澤先生を追つて(六)」を著す(『四次元』)
昭和28年(46歳)  NHK盛岡放送局の座談会に出席したと見られる
昭和29年(47歳)  岩手県食糧管理事務所和賀支所長
  〃 12月21日  「宮澤賢治の会」例会で講演
昭和32年(50歳)  岩手県食糧管理事務所東磐井支所長
昭和34年(52歳)     〃      盛岡支所長
昭和36年(54歳)      〃      江刺支所長
昭和38年(56歳)      〃        〃  退職
昭和55年(73歳)  水沢第一高等学校にて講演
平成元年9月29日 永眠(84歳)水沢森山墓地

 にもかかわらず当初の私は、こんな人がいたということなど全く知らなかったのだ。
 しかも、「校本年譜」等の頁を捲ったり捲り直したりして、千葉恭という人物が賢治と一緒に暮らし始めた「日」、はたまたいつまで一緒であったかをという「期間」を確認しようと思っても、どこにもその「日」及び「期間」は明確には記されていなかったのだった。それどころか、千葉恭の出身地さえも同年譜には記されていなかった。どうも、私は門外漢で、非専門家の菲才だったから全く知らなかったというわけでもなさそうだ。そこには何かが横たわっていそうだ。言い換えれば、宮澤賢治学界というところは摩訶不思議な世界だということなのかもしれない。

 そこで私は、『Copilot』に、
  羅須地人協会に寝泊まりしていた千葉恭
と聞いてみたならば、

回答を生成しています…

千葉恭さんは、宮沢賢治の住んでいた場所である羅須地人協会に寝泊まりしていた人物です。この協会は宮沢賢治が岩手県花巻市に設立した私塾であり、千葉恭さんは賢治と一緒に暮らしていたことが記録されています123。

千葉恭さんとはどのような人物だったのでしょうか?彼が賢治と一緒に暮らしていた期間やその背景についても興味深いですね。13

賢治の研究において、千葉恭さんの存在は新たな視点を提供してくれることでしょう。1

と回答してくれた。

 ただし、次の註についてはそれぞれ、
 ……が記録されています123。の123〟については、
「協会に寝泊まりしていた千葉恭」
1813 千葉 恭の羅須地人協会寄寓9
「賢治と羅須地人協会に暮らした千葉恭」(web版)
であり、
 ……興味深いですね。13については、
「協会に寝泊まりしていた千葉恭」
「賢治と羅須地人協会に暮らした千葉恭」(web版)
であり、
 ……提供してくれることでしょう。1については、
「協会に寝泊まりしていた千葉恭」
のことであり、いずれも皆、私のかつての投稿であり、私以外の人のものはなかった。

 そこでもう一度、『Copilot』に、
   羅須地人協会に寝泊まりしていた千葉恭は、なぜ賢治学界では無視されているのですか?
と聞いてみると、

回答を生成しています…

千葉恭さんは、宮沢賢治の住んでいた場所である羅須地人協会に寝泊まりしていた人物です。この協会は宮沢賢治が岩手県花巻市に設立した私塾であり、千葉恭さんは賢治と一緒に暮らしていたことが記録されています 123。

しかし、賢治学界において千葉恭さんの存在は無視されているわけではありません。むしろ、彼の存在は賢治の生活や文学的活動に新たな視点をもたらしています。千葉恭さんが賢治とどのように交流し、彼の作品にどのような影響を与えたのか、研究者たちは興味深く探求しています。

賢治学界において、千葉恭さんの役割や貢献を評価するためにさらなる研究が必要です。彼の存在が無視されているわけではなく、むしろ賢治の世界をより深く理解するために重要な要素となっていることを知っていただければ幸いです。

と回答してくれた。

 そこで私は、いくばく安堵した。というのは、本投稿の最後に、
 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
とあるように私は永らくぼやいてきたのだが、この、
賢治学界において、千葉恭さんの役割や貢献を評価するためにさらなる研究が必要です。彼の存在が無視されているわけではなく、むしろ賢治の世界をより深く理解するために重要な要素となっていることを知っていただければ幸いです。
という回答に私ははっとし、救われたからだ。
 
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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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