システムが不調のため新たな写真を用いた従前のような投稿は出来ませんが、今後このような投稿をしてまいりますので、どうぞご覧下さい。

《羅須地人協会跡地》(2011年1月11日撮影)
昭和3年9月の賢治
では、昭和3年9月分について賢治の営為と詠んだ詩等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみると、
のようになる。ただし、詠んだ詩については前月8月同様9月も記載がない。また、書簡243の中身、及びその考察はについては既に一度考察済みだが以下に再掲しておく。
◇ 243 9月23日付 高橋(澤里)武治あて 封書
<『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館)より>
さてここでまず気になったのが「妹クニと刈屋主計の養子縁組が行われたが賢治は病臥中で宴に出られなかった」についてである。もちろん素直に考えれば、賢治は当時病臥中だから宴に出られなかったということは当然のことだろうが、逆に次のような可能性も考えられる。先に、菊池武雄が賢治を訪ねてわざわざ豊沢町の実家へ行ったのにもかかわらず賢治には直接は会えなかったのは「蟄居・謹慎」のためだったという可能性があると述べたのと同様に、「蟄居・謹慎」の身にあった賢治は半ば公的な「養子縁組の宴」には出るわけにはいかなかったというそれがである。
次に書簡〔243〕についてだが、その中の「演習」に関しては既に考察済みではあるからそのことに関してはここではもう触れない。ただし「休み中二度もお訪ね下すったさうで」につては少し考えてみる。当時武治は岩手師範の学生だったから盛岡にいたわけで、夏休み中の武治は湯本村糠塚の実家に戻った際にでも下根子桜を訪ねていたのだろうか、それも賢治のいないそこを二度も。そしてのことを武治は賢治宛書簡に書いてよこしたのだろう。すると気になってくるのが、8月12~13日頃には一度菊池武雄と藤原嘉藤治が下根子桜を訪れたり、岩手師範が夏休み中に武治は下根子桜を二度も訪れていたりしていたとなれば、同じように愛弟子の柳原昌悦や菊池信一等もそこを訪れていたかもしれないし、しかもいずれの場合も賢治が留守中の下根子桜を訪ねたことになるということが、である。
ところが、賢治はあの黒板にそのことを一言も書いていなかったし、それが少なくとも8月10日~9月23日の40日間以上も続いたということになるのだが、私はこのことが納得できない。言い換えれば、「豊沢町に居ることを黒板に書いて置けばよかったとしきりに考へました」という悔いは賢治らしからぬことだし、そこに気づかぬ賢治であったはずがない。しかも、賢治が下根子桜に居ないということを知った菊池武雄は後にわざわざ豊沢町の実家を訪ねたのだが賢治はその見舞いを謝絶したというのにもかかわらずだからなおさらにである。
となれば逆に考えられることは、賢治はそのようなことをあの黒板に書くことはできにくかったということであり、下根子桜を去って実家に戻ったということはあまり公にできなかったということであり、賢治は身を隠す必要があったということの可能性である。
最後に、草野心平がらみの記載についてだが、それまで一面識もなかった草野が賢治について「アメリカ式農場を経営し」と認識していたとすれば、それは賢治が下根子桜に移り住んでいた時のものなので、その当時の賢治に対するこれが風評の一つだったということが知れる。
このことに関連しては、平澤信一氏はによれば、渡辺渡編輯の詩誌「太平洋詩人」において、
と草野は述べているという。つまり、賢治は「岩手県で共産村をやつてゐる」という認識も当時の草野にはあったということになる。
しかもそれは草野だけではなかった。というのは、『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・年譜篇』の)27pによれば、あの三野混沌も「描写上の問題と労働せる作家や詩人」という論考の中で、
(賢治は)共産村を営み、村の百姓仲間と芝居をやり、音楽をやり、書いたりしてゐるといふ。
と述べていたというからだ。
もちろん、賢治が当時「共産村やつてゐる」という歴史的事実はあったとまでは言えないだろうが、面識の無い人達からでさえも賢治はこのように見られ、思われていたということは、賢治のこのような風評は世の中に結構広まっていたということになりそうだ。となればなおさらに、賢治は官憲から厳しいマークを受けていたということはどうも否定できなさそうだ。
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。
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そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

現在、岩手県内の書店で販売されております。

《羅須地人協会跡地》(2011年1月11日撮影)
昭和3年9月の賢治
では、昭和3年9月分について賢治の営為と詠んだ詩等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみると、
九月五日(水) 妹クニと刈屋主計の養子縁組が行われたが賢治は病臥中で宴に出られなかった。
九月二三日(日) 高橋武治あて返書(書簡243)。
「八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。…」
九月 草野心平から「コメ一ピヨウタノム」の電報があった。当時草野は猛烈な貧乏生活の上、賢治に対する知識はアメリカ式農場を経営し、念仏を称え、ベートーヴェンをきき、詩をつくるというふしぎな人物という程度で、もちろん面識もなかった。この電報に対し、なるべく金になりそうな造園学の本が送られてきたという。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)より>九月二三日(日) 高橋武治あて返書(書簡243)。
「八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。…」
九月 草野心平から「コメ一ピヨウタノム」の電報があった。当時草野は猛烈な貧乏生活の上、賢治に対する知識はアメリカ式農場を経営し、念仏を称え、ベートーヴェンをきき、詩をつくるというふしぎな人物という程度で、もちろん面識もなかった。この電報に対し、なるべく金になりそうな造園学の本が送られてきたという。
のようになる。ただし、詠んだ詩については前月8月同様9月も記載がない。また、書簡243の中身、及びその考察はについては既に一度考察済みだが以下に再掲しておく。
◇ 243 9月23日付 高橋(澤里)武治あて 封書
盛岡市外 岩手県師範学校寄宿舎内 高橋武治様
お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。休み中二度もお訪ね下すったさうでまことに済みませんでした。豊沢町に居ることを黒板に書いて置けばよかったとしきりに考へました。こんど出るときは大体葉書を出してください。学校ももう少しでせうがオルガンなどやる暇もありますか。どうかお身体を大切に切角ご勉強ください。まづはお礼乍ら、
柳原君へも別に書きます。
九月廿三日
お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。休み中二度もお訪ね下すったさうでまことに済みませんでした。豊沢町に居ることを黒板に書いて置けばよかったとしきりに考へました。こんど出るときは大体葉書を出してください。学校ももう少しでせうがオルガンなどやる暇もありますか。どうかお身体を大切に切角ご勉強ください。まづはお礼乍ら、
柳原君へも別に書きます。
九月廿三日

<『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館)より>
さてここでまず気になったのが「妹クニと刈屋主計の養子縁組が行われたが賢治は病臥中で宴に出られなかった」についてである。もちろん素直に考えれば、賢治は当時病臥中だから宴に出られなかったということは当然のことだろうが、逆に次のような可能性も考えられる。先に、菊池武雄が賢治を訪ねてわざわざ豊沢町の実家へ行ったのにもかかわらず賢治には直接は会えなかったのは「蟄居・謹慎」のためだったという可能性があると述べたのと同様に、「蟄居・謹慎」の身にあった賢治は半ば公的な「養子縁組の宴」には出るわけにはいかなかったというそれがである。
次に書簡〔243〕についてだが、その中の「演習」に関しては既に考察済みではあるからそのことに関してはここではもう触れない。ただし「休み中二度もお訪ね下すったさうで」につては少し考えてみる。当時武治は岩手師範の学生だったから盛岡にいたわけで、夏休み中の武治は湯本村糠塚の実家に戻った際にでも下根子桜を訪ねていたのだろうか、それも賢治のいないそこを二度も。そしてのことを武治は賢治宛書簡に書いてよこしたのだろう。すると気になってくるのが、8月12~13日頃には一度菊池武雄と藤原嘉藤治が下根子桜を訪れたり、岩手師範が夏休み中に武治は下根子桜を二度も訪れていたりしていたとなれば、同じように愛弟子の柳原昌悦や菊池信一等もそこを訪れていたかもしれないし、しかもいずれの場合も賢治が留守中の下根子桜を訪ねたことになるということが、である。
ところが、賢治はあの黒板にそのことを一言も書いていなかったし、それが少なくとも8月10日~9月23日の40日間以上も続いたということになるのだが、私はこのことが納得できない。言い換えれば、「豊沢町に居ることを黒板に書いて置けばよかったとしきりに考へました」という悔いは賢治らしからぬことだし、そこに気づかぬ賢治であったはずがない。しかも、賢治が下根子桜に居ないということを知った菊池武雄は後にわざわざ豊沢町の実家を訪ねたのだが賢治はその見舞いを謝絶したというのにもかかわらずだからなおさらにである。
となれば逆に考えられることは、賢治はそのようなことをあの黒板に書くことはできにくかったということであり、下根子桜を去って実家に戻ったということはあまり公にできなかったということであり、賢治は身を隠す必要があったということの可能性である。
最後に、草野心平がらみの記載についてだが、それまで一面識もなかった草野が賢治について「アメリカ式農場を経営し」と認識していたとすれば、それは賢治が下根子桜に移り住んでいた時のものなので、その当時の賢治に対するこれが風評の一つだったということが知れる。
このことに関連しては、平澤信一氏はによれば、渡辺渡編輯の詩誌「太平洋詩人」において、
宮沢賢治は銅鑼に於ける不可思議な鉱脈である。会つたこともないし、未来どんな風に進展してゆくか、予想さへつかない。岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだが、お経を誦んだり、レコードをかけたり、木登りしたり、そんな事を考へても一寸グロテスクだ。曾て白鳥省吾氏が会いたい由を告げた時、私にはそんな余裕がないといつてはねかへしたそうだ。それを人づてに聞いたとき、私は内心万歳を叫んだ。
<『宮沢賢治Annual Vol.10』(宮沢賢治学会イーハトーブセンター)236pより>と草野は述べているという。つまり、賢治は「岩手県で共産村をやつてゐる」という認識も当時の草野にはあったということになる。
しかもそれは草野だけではなかった。というのは、『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・年譜篇』の)27pによれば、あの三野混沌も「描写上の問題と労働せる作家や詩人」という論考の中で、
(賢治は)共産村を営み、村の百姓仲間と芝居をやり、音楽をやり、書いたりしてゐるといふ。
と述べていたというからだ。
もちろん、賢治が当時「共産村やつてゐる」という歴史的事実はあったとまでは言えないだろうが、面識の無い人達からでさえも賢治はこのように見られ、思われていたということは、賢治のこのような風評は世の中に結構広まっていたということになりそうだ。となればなおさらに、賢治は官憲から厳しいマークを受けていたということはどうも否定できなさそうだ。
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”『羅須地人協会時代の賢治』の目次”へ。

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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。
【新刊案内】
そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

現在、岩手県内の書店で販売されております。
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