システムが不調のため新たな写真を用いた従前のような投稿は出来ませんが、今後このような投稿をしてまいりますので、どうぞご覧下さい。

《羅須地人協会跡地》(2011年1月11日撮影)
おわりに
さて、ここまで『羅須地人協会時代の賢治』のことを調べて来たいま、賢治の昭和3年を振り返って特に思うことは何かといえば、次の2点である。
一点目は、6月の「伊豆大島行」を含む上京の主な目的はちゑとの見合いのためだったなどということではなくて、佐藤竜一氏の主張通り、「逃避行」であったのではなかろうかということだ。そもそも6月のこの時期といえば農家にとってはまさに田植え時の農繁期なのだから、何もわざわざこのタイミングを選んで賢治は上京せずともよかろうにと私には思える。それどころか、私達が頭の中に描いている「賢治」であれば、周辺の農民への稲作指導のためにそれこそ「徹宵、東奔西走」している頃のはずだ。どう考えても、この農繁期に遥か遠く伊豆大島まで出かけねばならないほどの緊急性も必然性もともに思いつかない。しかし賢治はそれを実際にしていたのだから、賢治は伊藤七雄とこの時期に是非とも会わねばならなかったということが逆に示唆される。
したがって、もしこのときの上京が「逃避行」というのであれば、それは単なる「現実からの逃避行」というのではなくて、これは大内秀明氏の著書やご教示から学んだことなのだが、実はもっと差し迫った「逃避行」であって、それは官憲の追及からまさに逃れるためのものであり、紛らわすためであり、あるいはもしかすると伊藤七雄と賢治の関係を示す客観的な資料等を処分するためであったという可能性も考えられる(だからこそ逆に、周りはそれをカムフラージュするために賢治の「伊豆大島行」はちゑとの見合いのためだったと強調したのかもしれないし、それが真相であったことを知っていたがゆえに七雄の妹のちゑは賢治と結びつけられることを潔しとしなかったということだってあり得る)。
その二点目は、かつての「賢治年譜」の昭和3年には皆、
また、この頃の賢治については、佐藤隆房が述べているように、
なお、あの浅沼稲次郎も関東大震災直後、特高から「検束か謹慎か」と迫られて後者を選んだように、昭和3年に岩手で行われた凄まじい「アカ狩り」の際に万やむを得ず賢治が「謹慎」という道を選んだとしても、誰もそれは非難できないことであり、それは当時ならばよくある話だったはずだ。
とまれ、ここで述べた私見は通説とはかなり異なるが、少なくともそれよりは資料や証言に基づく限りは合理的で妥当な判断であると私は自信を持っている。つきましては、反論を待ちたい。つまり、どうかその反例を私に突きつけて頂きたい。
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。
【新刊案内】
そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

現在、岩手県内の書店で販売されております。

《羅須地人協会跡地》(2011年1月11日撮影)
おわりに
さて、ここまで『羅須地人協会時代の賢治』のことを調べて来たいま、賢治の昭和3年を振り返って特に思うことは何かといえば、次の2点である。
一点目は、6月の「伊豆大島行」を含む上京の主な目的はちゑとの見合いのためだったなどということではなくて、佐藤竜一氏の主張通り、「逃避行」であったのではなかろうかということだ。そもそも6月のこの時期といえば農家にとってはまさに田植え時の農繁期なのだから、何もわざわざこのタイミングを選んで賢治は上京せずともよかろうにと私には思える。それどころか、私達が頭の中に描いている「賢治」であれば、周辺の農民への稲作指導のためにそれこそ「徹宵、東奔西走」している頃のはずだ。どう考えても、この農繁期に遥か遠く伊豆大島まで出かけねばならないほどの緊急性も必然性もともに思いつかない。しかし賢治はそれを実際にしていたのだから、賢治は伊藤七雄とこの時期に是非とも会わねばならなかったということが逆に示唆される。
したがって、もしこのときの上京が「逃避行」というのであれば、それは単なる「現実からの逃避行」というのではなくて、これは大内秀明氏の著書やご教示から学んだことなのだが、実はもっと差し迫った「逃避行」であって、それは官憲の追及からまさに逃れるためのものであり、紛らわすためであり、あるいはもしかすると伊藤七雄と賢治の関係を示す客観的な資料等を処分するためであったという可能性も考えられる(だからこそ逆に、周りはそれをカムフラージュするために賢治の「伊豆大島行」はちゑとの見合いのためだったと強調したのかもしれないし、それが真相であったことを知っていたがゆえに七雄の妹のちゑは賢治と結びつけられることを潔しとしなかったということだってあり得る)。
その二点目は、かつての「賢治年譜」の昭和3年には皆、
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母の元に病臥す。
と書かれていたから、賢治が8月の10日に実家に戻ったのはこの年譜通りだと多くの読者が思わされているはずだが、どうも真相はそうとは言い切れず、それよりは 昭和3年8月10日に賢治が実家に帰ったのは体調が悪かったからということよりは、「陸軍特別大演習」を前にして行われた特高等の凄まじい「アカ狩り」から逃れることがその主な理由であり、賢治は重病であるということにして実家にて蟄居・謹慎していた。
という仮説を立てて検証してみたところ、この仮説の反例は今のところ見つかっていないから、この仮説の方がより真相に近いと言えるということだ。また、この頃の賢治については、佐藤隆房が述べているように、
・12月に入る前までは、「療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしました」ということであり、「たいした発熱があるというわけではありませんでした」。
・12月に入ると、「どうにも普通のやうではなくなつてをりました」ということであり、「突然激しい風邪におそわれまして、それを契機として急性肺炎の形となりました」。
ということが、そして、賢治の付添看護をした安藤のぶ等の証言に基づけば、・12月に入ると、「どうにも普通のやうではなくなつてをりました」ということであり、「突然激しい風邪におそわれまして、それを契機として急性肺炎の形となりました」。
・12月半ばから賢治は重篤になったので、安藤のぶと看護婦Tの二人は賢治の実家に出張して看護していた。
というあたりが真相であったと言えるだろう。なお、あの浅沼稲次郎も関東大震災直後、特高から「検束か謹慎か」と迫られて後者を選んだように、昭和3年に岩手で行われた凄まじい「アカ狩り」の際に万やむを得ず賢治が「謹慎」という道を選んだとしても、誰もそれは非難できないことであり、それは当時ならばよくある話だったはずだ。
とまれ、ここで述べた私見は通説とはかなり異なるが、少なくともそれよりは資料や証言に基づく限りは合理的で妥当な判断であると私は自信を持っている。つきましては、反論を待ちたい。つまり、どうかその反例を私に突きつけて頂きたい。
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”みちのくの山野草”のトップに戻る。

ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。
【新刊案内】
そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

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