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3 私見・「二百円」の無心とチェロ

2021-04-03 16:00:00 | 賢治昭和二年の上京


3 私見・「二百円」の無心とチェロ
 さて、ここからは、書簡「221」、「222」等を基にして以下のような新たな思考実験を試みたい。

 オルガンからチェロへ
 まずは、大正15年年12月12日付政次郎宛の書簡「221」の中で
 いままで申しあげませんでしたが私は詩作の必要上桜で一人でオルガンを毎目少しづつ練習して居りました。今度こっちへ来て先生を見附けて悪い処を直して貰ふつもりだったのです。新交響楽協会へ私はそれらのことを習ひに行きました。先生はわたくしに弾けと云ひわたくしは恐る恐る弾きました。十六頁たうたう弾きました。先生は全部それでいゝといってひどくほめてくれました。もうこれで詩作は、著作は、全部わたくしの手のものです。
             <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)237pより>
と賢治はしたためていることから、
   ・大正15年の上京の大きな目的の一つはオルガン演奏の弱点克服のための指導を受けること。
があったことが分かる。さらには、
・その指導を受けるために賢治は新交響楽協会へ行った。
・そして先生の前で教本の十六頁分、オルガンを弾いてみせた。
・先生は「全部それでいゝ」といってひどくほめてくれた。
・そこで賢治は「もうこれで詩作は、著作は、全部わたくしの手のものです」と父に伝えた。
ということも書かれている。
 しかし、当然ここで二つの疑問が生ずる。それは第一に、
    はたして先生は本当に賢治のオルガンの演奏技能をひどく誉めたのだろうか。
という疑問であり、第二には、
    賢治自身も自分のオルガン演奏技能が先生からひどく誉められたと真実思ったのだろうか。
という疑問である。そしてそれぞれに対する答は次のようなものになるのではなかろうか。
 まず前者についてだが、以前に触れた藤原嘉藤治の評価、
に従わざるを得ないことになったので、
◇新交響楽協会のプロの先生の前で実演してみせた賢治のオルガン演奏だが、それを聴いた先生はあまりにも未熟すぎる賢治のその演奏に対して言葉がみつからず、賢治が書簡にしたためたように、「全部それでいゝ」としか言えなかった。
が事の真相だったであろう。
 そして後者については、
◇賢治自身はこう書簡にしたためてはいるものの、賢い賢治のことだから、自分のオルガンの腕前がプロの目からどれほどの評価をされたのかは瞬時に覚らざるを得なかった。もちろん賢治がこのときばかりは極めつけの鈍感力を発揮したという可能性も否定しきれないが、あれだけクラシックが好きだった賢治がその時の先生の表情や言い方からして自分の技能の未熟さを覚らない訳がない。プロの先生の前でオルガンを演奏してみせた賢治ではあったが決定的なダメージを受け、自信喪失、オルガンの才能が実は自分にはないのだとこの時賢治は見切った。
というところが真相だったのではなかろうか。
 考えてみれば、大正15年という年は、賢治の地元岩手では旱魃の被害が甚大で特に隣の紫波郡の赤石村、不動村、志和村等は飢饉一歩手前の惨状に追い込まれていたので、連日その報道が新聞紙上を賑わしていた。そしてそれを救わんとして多くの人々が陸続として義捐活動に駆けつけたりしていること等もまた連日のように報道されていた。
 そのようなさなか、一人賢治は悲惨な状況下にある地元を離れて大金を使って上京している手前、
と父政次郎には言わざるを得なかった。しかしそう言ってはみたものの賢治は惨めな気持ちにおそわれ、内心忸怩たる思いであったであろう。
 父には内緒で密かに下根子桜で独習してきたオルガンであったがそれほど腕前は上達していなかった。そして、「先生は全部それでいゝといってひどくほめてくれました」と書簡で嘯いてはみたものの、先生が「ひどくほめてくれた」訳でないことは賢治自身が一番良く知っていた。こうやってまで取り繕って父に報告している自分があまりにも哀れで惨め。このままじゃまずい、これからどうしようと思い巡らした。
 そしてそこは天才賢治の面目躍如、天才は決断も早くて果敢であるが、一方では諦めるのも早い。オルガンが下手なのは自分にはその適性がないだけ、今後はオルガンはぼちぼちにして別な楽器を新たに学ぼう。では、自分に適性がある別の楽器は何だろうかと賢治は考えた。そこで思い付いた、そうか自分には嘉藤治もやっているチェロがもしかすると合っているかもしれない、いや合っているはずだ。嘉藤治ができるなら俺にやれないはずはない。これからはチェロだ! と。

 「二百円」の無心
決断も早くてせっかちな天才賢治、そう思い付いたら矢も楯もたまらずチェロが欲しくなった。さりとて、ヴァイオリンなどと違ってチェロは高価すぎる。まして賢治は欲しいとなれば最高級品を手に入れたがるのが常である。
 実際、横田庄一郎氏の『チェロと宮澤賢治』(音楽之友社、57p~)によれば、賢治が購入したチェロ一式の値段は一八〇円(チェロ箱も入れれば二三〇~二四〇円)もしたようだ。なおこの価格は、藤原嘉藤治が「で、そのうちに宮沢君もチェロが欲しくなったのか、東京で一八〇円だかで買ってきました」と証言している(『宮沢賢治第5号』(洋々社22p)の「思い出対談」より)こととも符合する。いずれにしても相当高額であり、賢治はどうやってこのセロを購ったのだろうか。
 そもそも、この滞京期間中の賢治には収入のあてなどは一切なく、しかも多額の支出(滞京費や授業料)を要したはずだからこのような高額のセロ一式を手に入れることができたとは到底考えられない。一体全体そんな高額の費用をどうやって調達できたというのだろうか…やはりあれしかない。あの書簡で無心した「二百円」の他にない。
 その書簡の一つは、政次郎宛書簡「222」〔(1926年)十二月十五日〕
今度の費用も非常でまことにお申し訳ございませんが、前にお目にかけた予算のやうな次第で殊にこちらへ来てから案外なかゝりもありました。申しあげればわたくしの弱点が見えすいて情けなくお怒りになるとも思ひますが第一に靴が来る途中から泥がはいってゐまして修繕にやるうちどうせあとで要るし廉いと思って新らしいのを買ってしまったりふだん着もまたその通りせなかゞあちこちほころびて新らしいのを買ひました。授業料も一流の先生たちを頼んだので殊に一人で習ふので決して廉くはありませんでしたし布団を借りるよりは得と思って毛布を二枚買ったり心理学や科学の廉い本を見ては飛びついて買ってしまひおまけに芝居もいくつか見ましたしたうたうやっぱり最初お願ひしたくらゐかゝるやうになりました。どうか今年だけでも小林様に二百円おあづけをねがひます。
であり、もう一つが次の同じく父宛の書簡「223」〔十二月二十日前後)
次に重ねて厚かましくは候へ共費用の件小林氏御出花の節何卒二百円御恵送奉願度過日小林氏に参り候際御葉書趣承候儘金九十円御立替願候
             <ともに『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
である。
 したがって、賢治は15日付書簡「222」で一度「二百円の無心」をし、その約5日後の書簡「223」において重ねてその無心をしていることになる訳だからこの大金「二百円」はどうしても欲しかった、この時期にこそ是非欲しかったものと考えられる。
 しかも後者の書簡からは、その「二百円」が届かぬうちに賢治は小林六太郎に九十円を立て替えてもらったことも判る。もしかするとその「九十円」とは、この「二百円」で買いたかった品物の頭金だったということも考えられる。せっかちな性格の賢治のことなれば、何しろ賢治はそれがいち早く手に入れたかったのかもしれない。

 何か変である
 こんなことを考えながら書簡「222」を読み直していたら、次の部分何か少し変である。
 毎日図書館に午後二時まで居てそれから神田へ帰ってタイピスト学校、数寄屋橋側の交響楽協会とまはって教はり午後五時に丸ビルの中の旭光社といふラヂオの事務所で工学士の先生からエスペラントを教はり、夜は帰って来て次の日の分をさらひます。
            <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)238pより>
 そこでこの書簡「222」の記載に基づいて、上京中の賢治の一日の行動パターンを地図上で確認してみたいと思ったので、【宮澤賢治の東京における足跡】(『賢治地理』、小沢俊郎編、學藝書林133p)を参照しながら辿ってみると、
 上州屋(賢治の下宿先)→図書館(上野図書館、日比谷図書館)に午後2時迄→タイピスト学校(YMCA)→交響楽協会(塚本ビル)→午後5時頃に丸ビル旭光社(エスペラント)→上州屋(賢治の下宿先)
となる。なお、もしこの時賢治が大津宅にチェロを習いに行っていたとすれば、朝いの一番に大田区千鳥町(大津三郎宅)まで出掛けて行って朝6時半~8時半迄特訓を受けていたことになる。
 それにしても、このパターンだと図書館にいる時間が一番長く、そこを午後2時に出て午後5時に丸ビルに行くとするとその間は3時間。その間の3時間が移動時間を含めてタイプライターとオルガンの練習時間となることになる。これじゃそれぞれの練習にそれほどの時間を割けないなと思いつつ、あることに気付いた。
 12/12付書簡「221」では「十日はそちらで一ヶ年の努力に相当した効果」を「エスペラントとタイプライターとオルガンと図書館と…」で得たというようなことを書いていたから、
    エスペラントとタイプライターとオルガンと図書館と…
並んでいるのに、どうして
 12/15付書簡「222」の方では
    図書館……タイピスト学校、数寄屋橋側の交響楽協会……エスペラント……
となっているんだろうかということにである。
 つまり書簡「221」でも「222」でも図書館、タイプライター、エスペラントのことは顕わに書いているのに、なぜオルガンに関しては前者にはあるのに後者には書いていないのだろうか、ということに気付いたである。
 ははあ、このことが「何か変」と感じた理由かもしれない。そしてもしかすると、この表現の仕方こそが賢治の心境の変化を暗示しているのではなかろうかと直感した。この手紙をしたためている頃には当初の目的の一つ、
   大正15年の上京の大きな目的の一つはオルガン演奏の弱点克服のための指導を受けること。
は既に賢治の頭の中からは消え去っていたのだ、と。もはや心は新たな楽器へと移っていたのだと私は受けとめた。とはいえ、多少のためらいが賢治自身にはあったので「数寄屋橋側の交響楽協会」とだけは書き添えてぼやかしておいたのかもしれない。

 賢治の方便?
 そして、変なことはもう一つある。まずは、先に挙げた「二百円」を無心した政次郎宛12/15付書簡「222」の中の次の、
 第一に靴が来る途中から泥がはいってゐまして…(中略)…芝居もいくつか見ましたしたうたうやっぱり最初お願ひしたくらゐかゝるやうになりました。
という部分を読んでみての私の率直な感想は、いつもの賢治とは違っていてくどくどと言い訳がましいことである。
 そもそも、この書簡「222」は上京してから滞京も半ばが過ぎた12月15日のものである。書簡の内容からは下宿代も授業料も既に払ったと判断できるのに、向後さらに二百円もの大金をこの賢治の「言い訳がましい」出費のために本当に必要としたというのであろうか。
 そう言えば、阿部末吉(阿部晁の息子)が言ってたことを思い出した。それは読売新聞社盛岡支局の取材を受けて阿部が記者に語った次のようなエピソードである。
「当時の盛中では、一学期ごとに寄宿舎の部屋替えをしていたので、いつだったか、私も賢治さんと同じ部屋になったことがあった。ある日、彼が私にいたずらっぽい笑いを浮かべながらこんなことを言うんです。小遣い銭に困った時、町の共同便所を壊してしまったので弁償しなければならないとおやじに言ってやったら金を送って来た―。普通の生徒なら、本を買う金がないと言うところなんです。茶目ッ気のあった賢治さんはいつもこんな調子でね―」
             <『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)74pより>
つまり、阿部末吉は盛岡中学の一級先輩だが、そこの寄宿舎自彊寮で同室になった際のことを阿部はこう証言していたことになる。
 まあ、「茶目ッ気」とも見られないこともないが、少なくとも盛岡中学時代にはこのような「嘘」をついて父親からお金をせしめた「実績」が賢治にはあるようだし、一級先輩の阿部から「賢治さんはいつもこんな調子でね―」と言われているくらいだか、この滞京中の「二百円の無心」の言い訳はもしかすると盛中生のときの経験が生きているかもしれない。
 一方で、なにしろ当時(大正末期~昭和初期)の人々にとって「月収百円」は憧れ(それこそ賢治が花巻農学校に勤めていた頃の月収が百円前後だから賢治はかなり高給取りだったと言えよう)であり、賢治はその2倍もの金額「二百円」をこれらのためにはたして必要としたというのだろうか。どう考えてもこの「言い訳がましい」理由にそれほどの額のお金は必要としないはずだから賢治の大金「二百円」の無心は説得力に欠けている。羅須地人協会時代の賢治は菩薩となって恵まれない農民を救おうしていたとばかり思っていた私にすれば、この「言い訳もどき」は変なことのもう一つであった。
 またその頃、古里岩手では連日のように紫波郡等の大旱魃の惨状を地元の新聞『岩手日報』は報道しているのだが、そのことを知らぬ賢治ではなかったはず。その賢治があれやこれやと新しいものを本当に買い揃えたりしていたのだろうか。もしそうであったとしたならば、賢治は全く社会性も金銭感覚も、憐憫の情も良心の呵責も乏しいと言わざるを得ない。
 だからおそらくこの「言い訳もどき」は賢治が大金の「二百円」を無心するための方便だったのではなかろうかと私は推理する。

 「二百円」の使途
 とすると、この当時の憧れの「月収百円」のその2倍もの大金「二百円」を急に欲しくなったのは、実は高額な他の品物を賢治は欲しくなったからだ、と考えるのが自然ではなかろうか。
 思い返せば、書簡「222」(12/15)の3日前の書簡「221」(12/12)では、前掲したように
 いままで申しあげませんでしたが私は詩作の必要上桜で一人でオルガンを毎目少しづつ練習して居りました。今度こっちへ来て先生を見附けて悪い処を直して貰ふつもりだったのです。
             <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)237pより>
としたためているのだから、このときの上京の目的は先生の前で教本を「十六頁たうたう弾」くことではなく、自分のオルガン演奏の「悪い処を直して貰ふ」のが目的だったのだから、次の段階はその指導を受けることであったはずである。
 ところが、先生の前でオルガン演奏をして「ひどくほめらた」賢治は書簡「221」(12/12)では大金「二百円」の無心をしていないのに、そのたった3日後の書簡「222」(12/15)で大金「二百円」を突如無心をしているのだから、この3日間に心境の変化があったであろうことは容易に想像がつく。あるいはもしかすると、書簡「221」は同「222」のための始めから伏線であったのかもしれな。
 そこで私は、プロの先生の前で行ったオルガン演奏が切っ掛けとなって賢治はオルガンの上達の方はほどほどにすることとして、今後は新たにチェロを学ぶことにしようと心変わりした、とやはり判断したい。そして思い立ったならば直ぐ欲しくなるのが賢治の性向であり、チェロが欲しくなって矢も盾もたまらなくなったのではなかろうか。それは、ちょうどこの大金「二百円」が、賢治が購入した最高級の鈴木バイオリン社製チェロ一式に要する金額とほぼ同じ額であることが暗示しているような気もする。
 やはり、この大金「二百円」の使途は最高級チェロ一式購入のためのであった。  (思考実験終了)

 では思考実験はもうこの辺りで止めて、再び元に戻って証言や資料等に基づいて考察していきたい。

              ‡‡‡‡‡‡‡<補足>‡‡‡‡‡‡‡‡‡
  私はこのことについて『金の星社』へ直接問い合わせた。すると次のような回答をいただいた。
 残念ながら、宮澤賢治の投稿掲載については有りませんでした。当時の投稿原稿については保管がありませんので、確認ができません。また、宮澤姓の掲載・岩手からの掲載についても有りませんでした。
と。そして、
 当時童謡童話雑誌の隆盛期でもあり、「金の星・金の船」ではなく、「赤い鳥」「おとぎの世界」「こども雑誌」「童話」など他の雑誌への投稿掲載であったのではないかと推測されます。
というアドバイスもいただけた。
 したがって、少なくとも賢治の投稿が雑誌『金の星』に掲載されたということはなかったということになる。一方で、賢治が同誌に投稿したかどうかは確定できないから、この「店に手傳つてゐた一少年」が間違って覚えていたのか、あるいは賢治が「今度はいいだらう。今度はいいだらう」と屡々投稿し、一・二度掲載されたこともあつた、とその少年に語ったのかもしれない。
 それにしても、ご多忙であろうところを私の厚かましいお願いに迅速にご対応、ご回答をして下さった『金の星社』にはとても感激した。厚く御礼申し上げます。

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