みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

1726 花巻空襲の出火地点

2010-09-23 08:00:00 | 賢治関連
 花巻空襲における花巻中心部の出火地点について、”花巻空襲罹災区域”においては大工町方面、一方”花巻が燃えた日”においては上町の梅津金物店付近ということだった。梅津金物店のあった場所は大工町方面というよりは上町なのでこの両者には食い違いがある。
 そこで、その確認等を試みた。併せて、賢治生存中の時代を匂わせる建物で、花巻空襲では焼失を免れたが近いうちに壊されるのではないかと危惧される(花巻の市当局は歴史的建造物を粗末にすると市民がしばしば嘆くのだが)建物などを少し見て廻ったので報告する。

 下の写真の交差点の右隅の建物が
《1 かつて「梅津金物店」のあった場所に建つビル》(平成22年9月18日撮影)

であるということが分かった。つまり、このビルの建っている場所がかつて「梅津金物店」のあった場所である。
 因みに上の写真の手前に見える道路は上町のメインストリートである。また、中央の道路の向こう奥に見えるのは光徳寺である。この交差点は十字路の交差点になっていて、「梅津金物店」のあった場所の真向かいに「盛岡屋」という種屋さんがある。
《3 「盛岡屋」(奥に見えるのは専念寺)》(平成22年9月18日撮影)

 この種屋さんの方に、あの梅津金物店付近に花巻空襲の際に爆弾が落ちたのですかとお尋ねしたところ、たしかにそうだとのこと。続けてその空襲による火災の際に、延焼を防ぐために専念寺の周りを取り壊したということですが、とお訊きしたならば、そのことは知らないというお答えだった。
 さらに、梅津金物店付近の他にと光徳寺にも爆弾が落ちてこの2ヶ所から出火したということも教えていただいた。ただし以前私が聞いていたところではたしか後者付近からは出火はなかったはずだと思ったので、確認のために
《2 光徳寺》(平成22年9月18日撮影)

に向かった。この光徳寺の隣に松庵寺があるが、松庵寺は焼失し、光徳寺は焼失を免れたはずである。
 そこで光徳寺のお隣の民家をお訪ねして確認しようと思ったならば、その空襲を経験し、高村光太郎を何度もお見かけしたというご年配の婦人がおられた。そのご婦人からは、松庵寺の建物には被弾した跡が今でも残ってはいるが、この付近からは出火はしておりませんということを教わった。というわけで、花巻空襲の際の花巻中心部の出火地点は「梅津金物店」付近のみ一ヶ所としてよかろう。
 なおこのご婦人にも、延焼を防ぐために専念寺の周りを取り壊したということですがとお訊きしたならば、種屋さんと同様そのようなことは聞いていないというお答えだった。
 ということは、実際取り壊しがあったか否かはさておき、山折哲雄氏が気にするほど専念寺周辺の人々は専念寺のことを恨みがましく思っていないのではなかろうか。

 というわけで地元の人々の情報から、花巻空襲の際の花巻中心部の出火地点は上町の「梅津金物店」付近であり、それは下図のA地点であることが確認できた。
《4 出火地点》

   <『花巻が燃えた日』(加藤昭雄著、熊谷印刷出版部)より>
したがって、出火地点は焼失区域のほぼ西端と言ってよく、以前”専念寺とその周り”の《10 巻空襲罹災区域》で”西風が吹いていた”と推定したが、上の焼失区域の分布と形状からこのことがほぼこれで検証できたであろう。

 なお、焼失区域の北辺部分が不思議なことに一直線状になっている。現在の地図(下図)と比べてみると
《5 現在の花巻中心部》

       <YAHOO!JAPAN地図より>
焼失区域の「北辺部分」に相当する部分は太い実践と点線部分であるが、今は一部道路がなくなっている(上図楕円D部分)。
 そこで、おそらくここにもかつては道路があり、その一直線状の道路が延焼を防いだのではなかろうかと推理していたので、種屋さん「盛岡屋」の方にお尋ねしたならば、たしかにその当時はそこには一直線状に細い道路があったということだった。ほぼ推理は正しかったようだ。

 残るは、当時大堰川周辺にはお店や民家がどれくらいどのように分布していたかということを知りたいのだが、とりあえず今回は以上の2点(出火地点の件、北辺部分の件)の疑問がほぼ解消できたので満足することにしよう。

 なお、花巻空襲による焼失を免れて現在も残っていて、今後も大切に保存していってもらいたいと思っている2つの建造物の報告を次にしたい。
 まずその一つ目。
《6 「春と修羅」印刷所跡標石》(平成22年9月18日撮影)

 以下案内プレートなどによれば、大正13(1924)年に出版された『春と修羅』を印刷したのは山口活版の花巻支店である「大正活版所」であり、その大正活版所のあったのがこの
《7 照井菓子店》(平成22年9月18日撮影)

にであった。現在は印刷の仕事はやめて名物の
《8 「経木だんご」》(平成22年9月10日撮影)

などをつくっているが、店の屋根の形や
《9 店内》(平成22年9月18日撮影)

の造りはその当時のままであるということと、印刷所ではやっていけないということで途中から菓子店に職業変えをしたということなどを、照井菓子店のご主人から教わった。
 賢治は毎日のようにここ大正活版所に通って校正したり、ここにない活字は盛岡の山口活版所までしばしば賢治自身が取り寄せに行ったりもしたとのことである。なお、賢治の遺言した「国訳妙法蓮華経」一千部を印刷したのも山口活版であるという。
 建物の維持は大変なこととは思うが、いつまでもこの美味しい経木団子を作りながらこの建物を保存していってもらいたい。

 二つ目。
《10 旧花巻町役場の建物》(平成22年9月18日撮影)

である。
《11 〃 》(平成22年9月18日撮影)

《12 〃 》(平成22年9月18日撮影)

《13 〃 》(平成22年9月18日撮影)

そばに
《14 案内板》(平成22年9月18日撮影)

があり、その由緒等が書いてあった。
 花巻の由緒ある建物はいつの間にか取り壊されているのが常のようだが、耐震性の点からこの建物は不安があるのだろうが、だからといって簡単には取り壊さないで欲しいものだ。

 最後に花巻駅周辺に関して。
 以前”花巻が燃えた日”で触れたように、この昭和20年の花巻空襲の際には花巻駅周辺の爆撃は熾烈を極めたという。花巻駅前を中心に投下された500ポンド(約230㎏)爆弾18発が炸裂し、多くの建物が倒壊した。特に花巻駅は殆ど全壊した。また少なくとも32名が亡くなったという。
 そこで戦後50年の平成7年、花巻空襲の激しかった花巻駅前に、恒久平和を願い
《14 やすらぎの像》(平成22年9月10日撮影)

を建立したという。
 また、駅の近くに
《15 藤木神社》(平成22年9月10日撮影)

があるが、その境内には
《16 平和誓》(平成22年9月10日撮影)

の石塔が建ててあった。

 続きの
 ”笹森山”へ移る。
 前の
 ”『イーハトヴの家』”に戻る。

 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 1725 四川省の山野草(32、雪... | トップ | 1727 四川省の山野草(33、雪... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治関連」カテゴリの最新記事