みちのくの山野草

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1698 花巻が燃えた日

2010-09-09 09:00:35 | 賢治関連
  《1 ↑『あなたの町で戦争があった』(加藤昭雄著、熊谷印刷出版部)表紙》

 加藤昭雄氏の『花巻が燃えた日』や『あなたの町で戦争があった』には、8月10日の花巻空襲に関しては以下のようなことなどが述べられている。
 1945年(昭和20年)8月10日の花巻は朝からじりじりと暑い日であった。
 8時半頃から艦載機が花巻町中心部上空にも姿を現すようになり空襲警報が発令され、以後11時頃まで空襲警報と警戒警報が間断なく繰り返された。後藤野飛行場などを攻撃する飛行機や燃え上がる黒い煙が見えて、いよいよ花巻も攻撃されるのではないかと町民は不安におののいた。10時半から11時頃には散発的ながら町内(花巻煉瓦工場)に機銃掃射が行われた。
 昼頃になって飛行機の飛来もなくなり、警報も止んでほっとしていた。ところが午後1時30分頃空襲警報がけたたましく鳴り響き、間もなく爆弾投下の地響き、頭上すれすれに飛ぶ飛行機の猛烈な轟音、激しい機銃掃射の連続音がこだました。花巻を攻撃したのは金華山沖に停泊中の米艦ハンコックから離艦したカーチスとグラマン計22機であり、攻撃目標は後藤野飛行場、花巻駅構内及び市街であったという。
 花巻駅前を中心に投下された500ポンド(約230㎏)爆弾18発が炸裂し、多くの建物が倒壊した。特に花巻駅は殆ど全壊した。また少なくとも32名が亡くなったという。
 また、似内駅では艦載機8機により、停車中の客車等が小型爆弾の集中砲火を受けて乗客5名が死亡したという。
 一方、花巻町中心部に落とされた爆弾は同じく500ポンド爆弾。ただし、その数は4発と少なかったが死者は10名、さらに上町の梅津金物店付近に落下した爆弾によって出火、折からの西風に煽られて瞬く間に燃え広がった。火災は出火場所の西側(鍛治町)へは全く移らず、東の方に瞬く間に広がった。その後も米軍艦載機姿を現したために消火もままならず、上町、下町、大工町、豊沢町、町裏の大半を焼き尽くし2日間に亘って燃え続けた。焼失戸数673戸(花巻町の20%弱)、被災世帯374世帯に達したという。

 <註>『花巻が燃えた日』、『あなたの町で戦争があった』はいずれも加藤昭雄著、熊谷印刷出版部発行である。

 したがって、これらの著書に従えば
1.
 以前”花巻空襲(宮澤賢治生家)”において
 午前十一時半(午後1時半頃?=投稿者)に艦載機が数機飛来して駅方面に爆撃を集中した。
の部分で”午後1時半頃?=投稿者”としたのだったが、この部分は次のように訂正されることになろう。
 午後一時半に艦載機が数機飛来して駅方面に爆撃を集中した。

2.
 また、”花巻空襲罹災区域”では出火場所は
 大工町方面
ということであったが、それは
 上町の梅津金物店付近
ということになろう。

3.
 さらに”専念寺とその周り”で立てた仮説の
 『1 風は大雑把に言って西から東に吹いていた(つまり西風が吹いていた)』
は、
 折からの西風に煽られて瞬く間に燃え広がった。
によって検証できた。

4.
 最後に、”専念寺とその周り”等に載せた下図
《2 巻空襲罹災区域》

   <『花巻の歴史・下』(及川雅義著、図書刊行会)より抜粋>
では斜線部分が罹災区域であり、この部分が焼失区域でもあると私は見なしていたが、『花巻が燃えた日』にもこれに相当する図が載せてありそれははっきりと””焼失区域”と書かれた次のようなものであった。
《3 戦災焼失区域略図》

   <『花巻が燃えた日』(加藤昭雄著、熊谷印刷出版部)より>
したがって、両者の斜線部分は大凡は同じであるが、多少異なっている部分もある。

 後者の図に従うならば、
 1.たしかに専念寺は焼失していないし、焼失区域から結構離れている。
 2.焼失区域の西辺部分は大堰川が境になっている。
 3.焼失区域の北辺部分はきれいに直線状になっている。←なぜだろうか。

 なお、rinrin さんから次のようなことを教えていただいた。
 専念寺界隈はすごー-く変わりました。昔の地図を見るとわかると思いますが、戦前も母の話とあまり変わらないように思いますが、オオゼキ川の周辺、川の上にも店舗がありましたよ。私が高校の頃は、あの辺大変にぎやかでしたから、今の吹張のテーマパークの辺も全部お店です専念寺の上は確かに崖ですが東側の川は殆んど住宅です川の脇に作業小屋があったりして、川は殆んど見えない状態でしたよ。戦前はもっと小さいお店が沢山あったようです。

 よって、このシリーズはもう少し検証と修正が必要だと思う。特に、この当時の専念寺周辺の家屋の分布の詳細を調べてみたい。

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