では今回は専念寺とその周囲を少し見てみたい。
《1 専念寺正面》(平成22年9月3日撮影)
写真右手に見える百日紅の大木が見事である。
上の写真は下図地点Aで撮っている。
《2 専念寺周辺マップ》(YAHOOの!地図から無断借用です。お赦し下さい)
<YAHOO!地図より抜粋>
この地点Aから東側を見れば
《3 ブロック塀》(平成22年9月3日撮影)
があり、その中には墓地B(墓石は20基強)があった。
地点Aから専念寺正面に向かって進むと
《4 道路左手(西側)にも墓地C》(平成22年9月3日撮影)
があり、ここの墓石は20基弱であった。墓地はこの2個所だけであり墓石は全部で約40基ぐらいのようだった。それほど大きいお寺ではなさそうだ。
専念寺前の道路を右に折れて東方向に進んで振り返って見た
《5 専念寺の住まい》(平成22年9月3日撮影)
さらに進むと
《6 空き地あり》(平成22年9月3日撮影)
今度は専念寺の西側にある道路から見た
《7 専念寺白壁》(平成22年9月3日撮影)
そこには昔懐かしい
《8 碍子》(平成22年9月3日撮影)
が取り付けてあり、この建物には昭和20代の匂いがする。おそらく、この概観などから見ていまの専念寺の建物は昭和20年に焼け残ったままの建物に違いない。つまり、明治12年に火災にあって焼失した専念寺であるがその後に再建されたままの建物なのであろう。
さらに西側道路を北方向に進めば
《9 専念寺の裏側(北側)は断崖》(平成22年9月3日撮影)
になっていて、それはかなりの段差があることが判る。
そこでもう一度
《10 巻空襲罹災区域》
<『花巻の歴史・下』(及川雅義著、図書刊行会)より抜粋>
を見ながら、このときの火災の広がり方などを以下に思考実験してみよう。
以前”花巻空襲罹災区域”にあったように、火災は地点A(大工町)から始まって広がっていったわけだが、上図を見ればその広がり具合から
1 風は大雑把に言って西から東に吹いていた(つまり西風が吹いていた)。
2 火災は基本的には西側は大堰川を境にして止まっている。
3 専念寺に関していえば火の手は東南方向から迫っていた。
などということがと推定できる。
そこでこれらの仮定に従えば、”山折哲雄と花巻空襲”で触れた山折氏の言
専念寺が焼けてしまうと火災の被害がさらに拡大するということで、消防団の方々がやって来て寺の周辺を全部破壊し、空き地を作った。そのおかげで、うちの寺は焼け残った。
には一部誤解があるとは言えないだろうか。
つまり、寺の周辺を全部破壊したということはなくて、下図(再掲)
《2 専念寺周辺マップ》(YAHOO!地図から無断借用です。お赦し下さい)
<YAHOO!地図より抜粋>
でいえば東側D区域だけだったのではなかろうか。なぜなら、火の手は東南方向から迫っているのだが、区域BとCは墓地であり火の手はそこで弱まるはずだからである。
また、専念寺の西側は大堰川であり、同じく北側は断崖だからそもそもこの2方向には火の手は広がりにくかったはず。そのためであったのだろうか、実際罹災区域はここ専念寺付近が境目になっている。
そこで、私は思う
第一に、寺の周辺を全部破壊した訳ではなく、せいぜい東側D部分に過ぎなかったのではなかろうか。
第二に、このときは西風が吹いていたはずだから、専念寺が焼けてしまうと火災の被害がさらに拡大する恐れがあったから周辺を全部破壊した訳ではない。
と。
というわけで、以上の思考実験に基づいたとするならば、何も山折氏は”山折哲雄と花巻空襲”でふれたような心の傷を持たなくともいいのではなかろうかといえそうだ。
続きの
”「気違い賢治」と寒行”へ移る。
前の
”専念寺へ参りましょう”に戻る。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
《1 専念寺正面》(平成22年9月3日撮影)
写真右手に見える百日紅の大木が見事である。
上の写真は下図地点Aで撮っている。
《2 専念寺周辺マップ》(YAHOOの!地図から無断借用です。お赦し下さい)
<YAHOO!地図より抜粋>
この地点Aから東側を見れば
《3 ブロック塀》(平成22年9月3日撮影)
があり、その中には墓地B(墓石は20基強)があった。
地点Aから専念寺正面に向かって進むと
《4 道路左手(西側)にも墓地C》(平成22年9月3日撮影)
があり、ここの墓石は20基弱であった。墓地はこの2個所だけであり墓石は全部で約40基ぐらいのようだった。それほど大きいお寺ではなさそうだ。
専念寺前の道路を右に折れて東方向に進んで振り返って見た
《5 専念寺の住まい》(平成22年9月3日撮影)
さらに進むと
《6 空き地あり》(平成22年9月3日撮影)
今度は専念寺の西側にある道路から見た
《7 専念寺白壁》(平成22年9月3日撮影)
そこには昔懐かしい
《8 碍子》(平成22年9月3日撮影)
が取り付けてあり、この建物には昭和20代の匂いがする。おそらく、この概観などから見ていまの専念寺の建物は昭和20年に焼け残ったままの建物に違いない。つまり、明治12年に火災にあって焼失した専念寺であるがその後に再建されたままの建物なのであろう。
さらに西側道路を北方向に進めば
《9 専念寺の裏側(北側)は断崖》(平成22年9月3日撮影)
になっていて、それはかなりの段差があることが判る。
そこでもう一度
《10 巻空襲罹災区域》
<『花巻の歴史・下』(及川雅義著、図書刊行会)より抜粋>
を見ながら、このときの火災の広がり方などを以下に思考実験してみよう。
以前”花巻空襲罹災区域”にあったように、火災は地点A(大工町)から始まって広がっていったわけだが、上図を見ればその広がり具合から
1 風は大雑把に言って西から東に吹いていた(つまり西風が吹いていた)。
2 火災は基本的には西側は大堰川を境にして止まっている。
3 専念寺に関していえば火の手は東南方向から迫っていた。
などということがと推定できる。
そこでこれらの仮定に従えば、”山折哲雄と花巻空襲”で触れた山折氏の言
専念寺が焼けてしまうと火災の被害がさらに拡大するということで、消防団の方々がやって来て寺の周辺を全部破壊し、空き地を作った。そのおかげで、うちの寺は焼け残った。
には一部誤解があるとは言えないだろうか。
つまり、寺の周辺を全部破壊したということはなくて、下図(再掲)
《2 専念寺周辺マップ》(YAHOO!地図から無断借用です。お赦し下さい)
<YAHOO!地図より抜粋>
でいえば東側D区域だけだったのではなかろうか。なぜなら、火の手は東南方向から迫っているのだが、区域BとCは墓地であり火の手はそこで弱まるはずだからである。
また、専念寺の西側は大堰川であり、同じく北側は断崖だからそもそもこの2方向には火の手は広がりにくかったはず。そのためであったのだろうか、実際罹災区域はここ専念寺付近が境目になっている。
そこで、私は思う
第一に、寺の周辺を全部破壊した訳ではなく、せいぜい東側D部分に過ぎなかったのではなかろうか。
第二に、このときは西風が吹いていたはずだから、専念寺が焼けてしまうと火災の被害がさらに拡大する恐れがあったから周辺を全部破壊した訳ではない。
と。
というわけで、以上の思考実験に基づいたとするならば、何も山折氏は”山折哲雄と花巻空襲”でふれたような心の傷を持たなくともいいのではなかろうかといえそうだ。
続きの
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毎日暑いですね、山登りをなさる方が羨ましいです
さて、専念寺界隈はすごー-く変わりました。昔の地図を見るとわかると思いますが、戦前も母の話とあまり変わらないように思いますが、オオゼキ川の周辺、川の上にも店舗がありましたよ。私が高校の頃は、あの辺大変にぎやかでしたから、今の吹張のテーマパークの辺も全部お店です専念寺の上は確かに崖ですが東側の川は殆んど住宅です川の脇に作業小屋があったりして、川は殆んど見えない状態でしたよ。戦前はもっと小さいお店が沢山あったようです。
貴重な情報ありがとうございました。つい実態をよく知らないままに推理してしまいました。
おかげさまで、山折氏の言うとおり”寺の周辺を全部破壊し”たであろうことが納得できました。
つきましては、近々rinrinさんの情報を基にしてブログの修正をしたいと思います。
これからもよろしくお願いいたします。