みちのくの山野草

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1750 花巻空襲(専念寺の周囲) 

2010-10-04 09:00:00 | 賢治関連
   <1↑『戦災焼失区域略図(抜粋)』(「花巻が燃えた日」(加藤昭雄著、熊谷印刷出版部)より>

 以前”花巻が燃えた日”の末尾に、昭和20年8月10日の花巻空襲に関わって『特に、この当時の専念寺周辺の家屋の分布の詳細を調べてみたい』ということを述べたことがある。とはいえ、そのような資料がはたしてあるものかと思いつつ。
 ところが過日、ブログ『花巻の偉人 宮澤賢治』の中になんと”咽から手が出るほど欲しかった”その資料があったので引用させていただく。それが下図である。
《2 昭和10年代の「戦前の吹張町界隈地図(抜粋)」》

   <ブログ『花巻の偉人 宮澤賢治』より>
この地図には、専念寺はもちろんのこと、岩田洋品店も、爆弾が落ちたという梅津金物店も描かれている。そして何よりこの地図からは、当時専念寺の周りは案外空き地が多いかったことが判る

 よって、この地図「戦前の吹張町界隈地図」にしたがえば次のようなことが言えるのではなかろうか。
 以前の投稿”山折哲雄と花巻空襲”で触れた山折氏が言うところの
 消防団の方々がやって来て寺の周辺を全部破壊し、空き地を作った。そのおかげで、うちの寺は焼け残った。
    <『17歳からの死生観』(山折哲雄著、毎日新聞社)より>
は、もしかすると山折氏にはやや思い違いがあるのではなかろうかと。
 つまり、専念寺の周囲には当時空き地が多いかったし川(大堰川)や崖があったようだから、周辺を全部破壊し、空き地を作る必要はもともとなかったのではなかろうか。このような周囲の家屋の分布であればそれほど周辺の住民の自宅を壊して迷惑を掛けるなどという事はなかったのではなかろうか。
 したがって山折氏が
 ところが、150m(投稿者*)ぐらいしか離れていない宮澤賢治の生家はこの花巻空襲で焼けてしまった。
 これが、その後の私の心の傷になっている。

    <『17歳からの死生観』(山折哲雄著、毎日新聞社)より>
という心の痛みをいつまでも持ち続ける必要もないのでは、と思う次第である。

 ちなみに、下図が
《3 現在の専念寺周辺》

       <YAHOO!JAPAN地図より>
である。現在よりも当時の方が周囲に家屋が少ないようにさえ見えてくる。

 というわけで、とりあえずの疑問と悩みは解消できた、ということにしよう。

******************************************<(*)註>******************************************
 この距離150mについては、『デクノボー宮澤賢治の叫び』の対談の中にも出て来ていて、山折氏と吉田氏の人となりが彷彿としてきて興味深い。
 その対談で吉田氏がまず
 専念寺と賢治の実家の距離は300mある
と述べているが、そのあとで山折氏は
 本当は150mある
   <いずれも『デクノボー宮澤賢治の叫び』(山折哲雄×吉田司著、朝日新聞出版)より>
とダメ出しをしている。
 ところが、実際私が”YAHOO!地図”で調べたところでは約280mであり、吉田氏の300mの方が正しいと思う。どうみたって150mはあり得ない。したがって、実は山折氏の150mの方を訂正せねばならないのではなかろうかと他人事ながら心配してしまう。

 いずれこの対談の距離にかかわるエピソードから二人の違いが浮かび上がってくる。おそらく、山折氏は直感で数字を取り扱っているが、一方の吉田氏は実際何等かの方法で地理的に計測した数字を扱っているのだと思われる。ちゃんと吉田氏は科学的に検証をしながら物を書き、そして喋ってているんだ、と感心した。
 というわけで、いままでは吉田氏の賢治に対する評価はかなり辛辣だなと思っていたのでやや抵抗感があって遠ざけていたが、実は吉田氏は結構検証しながら物を書いているんだと認識を新たにした。


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