みちのくの山野草

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なんと、賢治自身が言及していた

2024-04-17 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)

 私は吃驚し、次に抃舞した。それは、〔施肥表A〕〔一一〕の中に、
   場処 真城村 町下
   反別 8反0畝

という記載があったからだ。そう、真城村〟といえば他でもない千葉恭の出身地ではないか。そして閃いた、この〝真城村 町下〟とは彼の実家の田圃のあった場所ではなかろうかと。それは、彼が実家には田圃が8反あると、何かで述べていたことを私は思い出したからだ。早速確認してみると、「宮澤先生を追つて(二)」(『四次元5号』所収)の中で恭は、
 鋤を空高く振り上げる力の心よさ! 水田が八反歩、畑五反歩を耕作する小さな百姓だが何かしら大きな希望が見出した樣な氣がされました。〈『四次元5号』(宮澤賢治友の会、昭和25年3月)9p〉
と述べていた。確かに実家の田圃は8反であった。したがって恭の実家では当時真城村の〝町下〟という所に8反の田圃を持っていたと推理できる。        
 そしてもしこの推理が正しければ、この施肥表は恭以外の人物、それも何と、当の賢治自身が書き残した、賢治と恭の関係を示す客観的資料である。しかも初めて明らかになったそれと言える。私は思わぬ発見に嬉しくなった。その喜びに浸りつつ『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』の続きの頁を捲っていったところさらに確信が深まっていった。というのは、この施肥表〔一一〕の他に同書には同〔一五〕と〔一六〕が載っておりそれぞれの〝場処〟が、
  〔一五〕の場処は 真城村中林下
  〔一六〕  〃   真城村堤沢
となっていたからである。すなわちこれら3枚の〔施肥表A〕の〝場処〟はいずれも恭の出身地である真城村のものだった。
 さらに、これらの3枚の左上隅には
  〔一一〕の場合〝D〟
  〔一五〕  〃 〝E〟
  〔一六〕  〃 〝C〟
の記載がある。ところがこの『校本全集』に所収されている17枚の〔施肥表A〕のうち、これら3枚以外にはそんなアルファベットの記載はない。ということは、これら3枚はワンセットのものであり、同時期にまとめて賢治が設計した施肥表に違いないはず。それもC、D、Eの3枚があるということは少なくともA~Eの5枚はあったはずであろう。どうやら、これだけの枚数を、花巻から遠く離れた真城村の人たちが賢治からわざわざ肥料設計をしてもらったということになりそうだ。なぜだったのだろうか。
 実は、前掲の追想「宮澤先生を追つて(二)」の中で、真城村の実家に戻って帰農した恭は地元の仲間32名を誘って「研郷會」を組織して、羅須地人協会と似たような取り組みをしたということも述べている。そして、その後も恭はしばしば下根子桜の賢治の許を訪れては指導を受けていたということで、
 農業に從事する一方時々先生をお訪ねしては農業經濟・土壤・肥料等の問題を教つて歸るのでした。…(筆者略)…私が百姓をしているのを非常に喜んでお目にかゝつた度に、施肥の方法はどうであつたかとか? またどういうふうにやつたか? 寒さにはどういふ處置をとつたか、庭の花卉は咲いたか? そして花の手入はどうしているかとか、夜の更けゆくのも忘れて語り合ひ、また農作物の耕作に就ては種々の御示教をいたゞいて家に歸つたものです。歸つて來るとそれを同志の靑年達に授けては實行に移して行くのでした。そして研鄕會の集りにはみんなにも聞かせ、其後の成績を發表し合ひ、また私は先生に報告するといつた方法をとり、私と先生と農民は完全につなぎをもつてゐたのです。〈『四次元5号』(宮澤賢治友の会)10p〉
ということも述べていたから、そのような指導の一環として賢治から施肥の指導も受けていたのであろう。その具体的な事例がこれらの施肥表であり、これらの3枚は恭及び「研鄕會」の他の会員分2枚を恭が取りまとめて「下根子桜」に持参し、賢治に肥料設計を依頼したものに違いない。
 なお、これら計17枚の〔施肥表A〕のうちの何枚かにはそれぞれの提供者名のメモがあると『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』の〝校異〟にはただし書きがある。したがって、これら3枚の〔施肥表A〕についても提供者名の記載があればことは簡単に解決するはずなのだが、残念ながらこの3枚の施肥表にはその記載がなかったようだ。

 こうなれば、千葉恭の長男の益夫氏に会ってその田圃の場所を確認をし、恭の実家の近くには〝町下〟だけでなく〝中林下〟及び〝堤沢〟という地名があるか否かも確認したくなった。もしこれらの地名がその辺りにあれば、これらの〔施肥表A〕は100%、賢治が恭に頼まれて設計してやったものだろうと断定できると思ったからである。実は、このこともあって益夫氏の許を訪ねたのが、平成23年6月16日であった。そして、『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』掲載の件の3枚の〔施肥表A〕のコピーをお見せしながら、
 お父さんが真城のご自宅に戻って農業をしていた頃、〝町下〟に8反の田圃があったでしょうか。
と訊ねると、嬉しいことに、
 確かに真城の実家の近くに〝町下〟という場所があり、そこに田圃がありました。その広さから言っても実家の田圃に間違いない。
という予想どおりの答が返ってきた。そして、
 そもそも水沢の〝真城折居〟は、かつては〝真城村町(まち)〟と呼ばれていて、〝折居〟は以前は〝町〟という呼称だった。
ということも教えてもらった。これで、〔施肥表A〕の〔一一〕に記されていた
   場処 真城村 町下
   反別 8反0畝

は、まさしく当時の千葉恭の実家の田圃のことであり、
  〔施肥表A〕〔一一〕は恭の実家の水田に対して賢治が設計した施肥表である。
と、もう断言してもいいだろう。
 また〝中林下〟及び〝堤沢〟という地名が〝町下〟の近くにあるということも知った。もっと正確に言うと、〝中林下〟及び〝堤ヶ沢〟という地名が真城村の〝町下〟の近くにあることが判った。おそらくこの〝堤沢〟は〝堤ヶ沢〟のことだろうから、
   町下、中林下、堤沢
という地名のいずれもが、当時の真城村の〝町下〟の周辺に存在していたとしてもいいだろう。よって、これら3枚の〔施肥表A〕のそれぞれに記された場処、
   〔一一〕の〝町下〟、〔一五〕の〝中林下〟、〔一六〕の〝堤(ヶ)沢〟
は全て〝真城村 町下〟周辺に実在していた地名であり、
〔施肥表A〕の〔一一〕〔一五〕〔一六〕の3枚はいずれも恭に頼まれて賢治がわざわざ設計した、花巻から遠く離れている真城村の田圃に対する施肥表である。
と言い切っていいだろう。
 これでやっと、今まで千葉恭が残した幾つかの資料から一方的に賢治を見てきたが、初めて逆方向からも見ることができた。つまり今までの流れの図式は、
  ・千葉恭→賢治
というものであったが、これで
  ・賢治→千葉恭
という逆の流れも初めて見つかったので、両方向の流れができた。それゆえ、先に定立した
〈仮説1〉千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。
の妥当性に私はますます確信を持った。

 とまれ、当初、「当時身辺にいた人々が、どうして千葉氏に言及していないのか」という疑問があったのだが、なんと、他ならぬ賢治自身が言及していたのであった、と言える。そして、何故それが分かったのかというと、それまでは不確かであった千葉恭の実家が真城村であることを私が初めて確定出来ていたからのようだ。 
 だから、「しかし絶対未だ明らかになっていない資料が必ずあるはずだ。そう思っていた私」は、そのとおりだったなと、自己満足した。菲才でもいいのだ、門外漢で非専門家であってもいいのだ、そんなことよりも、まずは基本に忠実に取り組めばいいのだと。

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  『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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