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件の「下根子桜訪問」は捏造だった

2019-06-06 10:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
〈「白花露草」(平成28年8月24日撮影、下根子桜)

件の「下根子桜訪問」は捏造だった
鈴木 それじゃここで、今までのことを少しまとめてみよう。
 まず、
(1) 森の「昭和六年七月七日の日記」における、露に関する記述内容には信憑性が欠けるものがある。
(2) 森は昭和2年当時、心臓脚気等で長期療養中だったため、昭和2年の秋に下根子桜を訪問しようとすることが容易な状態にはなかった。
(3) 昭和2年の夏までは露は下根子桜に出入りしていたが、それ以降は遠慮したという露本人の証言<*1>がある。
(4) 露からの高橋慶吾宛葉書<*2>によれば、昭和2年6月あたりから賢治は露のことを拒否し始めたことが窺える。
ということから、昭和2年の秋の日に森が下根子桜を訪問することはほぼ無理だった。ましてや、その際に森が露にすれ違ったということは考えにくいと判断できる。
吉田 かといって、森が下根子桜を訪れ、その際に露とすれ違ったということが大正15年の秋であったという可能性もほぼゼロだ。何となれば、森が心臓脚気と結核性肋膜炎を患って岩手に戻ったのは大正15年11月下旬だから、その直後に下根子桜までわざわざ泊まりに来ることは実際的にまずあり得ない。直ぐにその年の秋は終わってしまう時期だったからだ。
荒木 もちろん、この「下根子桜訪問」が昭和3年の秋ではないことも確かだべ。その頃はもう賢治はそこにはいなかったからな。
鈴木 ならば、昭和9年発行の『宮澤賢治追悼』に所収されている森の「追憶記」の中に、「一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた」と記述されている「下根子桜訪問」はいつ行われたのか。もはや、大正15年の秋の日でも、昭和2年の秋の日でも、はたまた昭和3年の秋の日でもほぼなさそうだ、ということになる。
荒木 もちろん、これらの年以外の秋の日の訪問もあり得ないことは明らか。賢治が下根子桜に住まっていたのは大正15年春~昭和3年の夏までだからだ。
吉田 ではいつ件の「下根子桜訪問」が行われたのかというと、大正15年春~昭和3年の夏の約2年4ヶ月間内の「秋」でない季節ということも考えられないわけではないが、その可能性は限りなくゼロに近いだろう。
 なぜなら、普通「一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた」と表現する場合に、年号の間違いは起こり得ても季節の「秋」についてまでは間違えることが少なかろう。まして、先の「追想記」を森が書いた時期はその「下根子桜訪問」から数年しか経っていないのだから、なおさらに。
荒木 ということはやはり、件の森の「下根子桜訪問」はほぼあり得ないし、自ずから、「下根子桜訪問」の際に森が露とすれ違ったということも限りなく虚構に近いということか。
鈴木 私が騙されるのは当然としても、どうやら上田哲でさえもそうだったということかもしれんな。
荒木 うん?
鈴木 上田の件の論文の中に、
 その時、彼女と一度あったのが初めの最後であった。その後一度もあっていないことは直接わたしは、同氏から聞いている。なお、彼女にはじめて逢った時の様子を『宮沢賢治と三人の女性』(七四ページ、七五ページ)に森は高瀬露についていろいろと書いているが、直接の見聞に基いて書いたものは、この個所だけであるから参考までに引用しておく。
 一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。國道から田圃路に入って行くと稲田のつきるところから、やがて左手に薮、右手に杉と雜木の混有林に入る。靜かな日差しのなかに木の枯れ葉が匂い、親しそうな堰の水音がした。
 ふと向こうから人のくる氣配だった。私がそれと氣づいたときは、そのひとは、もはや三四間向うにきていた。(濕った道と、そのひとのはいているフェルトの草履が音をたてなかったのだ。)私は目を眞直ぐにあげて、そのひとを見た。二十二三歳の女の人で和服だった。派手ではなかったが、上品な柄の着物だった。私はその顔を見て、異常だと直感した。目がきらきらと輝いていた。そして丸顔の両頰がかっかっと燃えるように赤かった。全部の顔いろが小麦いろゆえ、燃える頰はりんごのように健康な色だった。かなりの精神の昂奮でないと、ひとはこんなにからだ全体で上氣するものではなかった。
             <『七尾論叢 第11号』(七尾短大)77pより>
という個所があるのだが、この「同氏」とは森のことであり、上田も「この個所だけ」は森の「直接の見聞に基づいて書いたもの」であると思わせられていた可能性がある、ということさ。
荒木 そうか、端的に言えば、上田は森に嵌められたかもしれないということな。まあ、普通は誰でも「この個所だけ」は事実だったと素直に信じるだろうけどさ。
鈴木 さて、これで昭和2年、すなわち一九二七年の秋の日に森が下根子桜を訪問することはほぼ無理だった。まして、その際に森が露とすれ違ったということは考えにくいということがわかったし、自ずから、
    森の件の「下根子桜訪問」自体が虚構であった可能性が頗る高い。
ということもまたわかった。
吉田 では、森自身は「一九二八年の秋の日」に下根子桜の賢治の許を訪れることができないということは当然わかっていたはずなのに、なぜ「一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた。國道から田圃道に入つて行くと稲田のつきるところから云々」としたのだろうかということについてだが、荒木にはそれが見えた。
荒木 そう、話は簡単で、一九二七年の森は心臓脚気などで療養中であることが世間に知られていたから、森が「私は一九二七年の秋の日に下根子を訪ねたのであつた」としたならば、それは明らかな嘘だと直ぐばれることを彼自身が一番よく知っていただろうし、そのことを恐れた。
 そこで、例の「下敷」の年号は一個所以外は皆和暦で表し、その一箇所だけは西暦でしかも「一九二八年」、「八」にして、カモフラージュ作戦に出たと。
吉田 なるほど、一理あるな。
鈴木 それに、「一九二八年」の8月に賢治が下根子桜に戻ってたということはあの当時であればまだあまり世に知られていなかった。なにしろ、昭和3年の8月10日以降、賢治は実家に身を潜めていたとも言えるのだから。だから、たしかに、何とかなると思ったんじゃないのかな。
荒木 そういえばそうだった。賢治はその頃県下に吹き荒れたすさまじい「アカ狩り」から逃れるために実家に戻って蟄居謹慎していた、ということを鈴木は『羅須地人協会の終焉-その真実-』で展開していたもんな。
吉田 ついては鈴木、この件についてのここまでの僕等の話し合いの結果どんなことが言えるのか、お前の好きな「仮説検証型研究」という手法でまとめてみてくれよ。
鈴木 まずはここまでの考察によって、
〈仮説〉森荘已池が一九二七年の秋に「下根子桜」を訪問したということも、その時に露とすれ違ったということも事実とは言えず、いずれも虚構だ。
が定立できる。そして、これを裏付ける証言や資料は幾つもあったが、その反例は現時点では何一つ見つかっていないのでこの仮説の検証ができたことになる。よって、この〈仮説〉は今後その反例が突きつけられない限りという限定付きの「真実」だ<*3>。
荒木 要するに、
    件の森の「下根子桜訪問」は捏造だった
ということか。
 ここまでこの件に関してはかなり徹底的にやって来たが、それでも途中までは断言出来るものではなかった。それが、「仮説検証型研究」の手法に基づけば、このように断言出来るようになるわけだ。「仮説検証型研究」ってすげえ偉力があるんだ。 
吉田 どうやら、これからは賢治研究の分野においてももっと「仮説検証型研究」という手法を取り入れねばならないということであり、逆に言えば、今までこの分野ではそれが疎かになっていたということの一つの証左かもしれんな。
鈴木 もちろん、あの『ナーサルパナマの謎』(入沢康夫著、書肆山田)を読んで私は知ったんだが、入沢康夫氏は早い時点からその必要性を訴えてはいたんだけどね……。

<*1:投稿者註>
 上田哲は論文「「宮沢賢治伝」の再検証(二) ― <悪女>にされた高瀬露―」の中で、高瀬露の同僚の菊池映一氏の次のような証言を紹介している。
 露さんは、「賢治先生をはじめて訪ねたのは、大正十五年の秋頃で昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。」と彼女自身から聞きました。
              <『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)81p>
<*2:投稿者註> 昭和2年6月9日付慶吾宛て高瀬露書簡のことであり、小倉豊文によれば、
 高橋サン、ゴメンナサイ。宮沢先生ノ所カラオソクカヘリマシタ。ソレデ母ニ心配カケルト思ヒマシテ、オ寄リシナイデキマシタ。宮沢先生ノ所デタクサン賛美歌ヲ歌ヒマシタ。クリームノ入ツタパントマツ赤ナリンゴモゴチソウニナリマシタ。カヘリハズツト送ツテ下サイマシタ。ベートーベンノ曲ヲレコードデ聞カセテ下サルト仰言ツタノガ、モウ暗クナツタノデ早々カヘツテ来マシタ。先生は「女一人デ来テハイケマセン」ト云ハレタノデガツカリシマシタ。私ハイゝオ婆サンナノニ先生ニ信ジテイタゞケナカツタヤウデ一寸マゴツキマシタ。アトハオ伺ヒ出来ナイデセウネ。デハゴキゲンヤウ。六月九日 T子。
             <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)113p>
としたためられているという。そこでこの文面に従えば、6月9日以前は賢治と露の二人は少なくともそれほど悪い関係になかったはずだ。「宮沢先生ノ所デタクサン讃美歌ヲ歌ヒマシタ」というからだ。ところがこの時に、賢治は「女一人デ来テハイケマセン」と言ったとすれば、この時から露に距離を置くことを本人に宣言したと言える。そして一方、露の方はその後の自分の対応の仕方を「アトハオ伺ヒ出来ナイデセウネ」と書き添えているから、その傷心ぶりが伝わってくる。
<*3:投稿者註> したがって、
 さて、ここまでの「仮説検証型研究」を用いた検証作業等によって、とうとう恐れていたことが現実のものとなり、大前提だった件の「下根子桜訪問」が崩れてしまった。その結果、唯一の「直接の見聞」と思われた「露とのすれ違い」も単なる虚構だったということになってしまった。まさにあやかしの極み、しかもそこには悪意があるからこれらは捏造と言える。となれば、先に考察した「ライスカレー事件」等も同様で、虚構や風聞程度のものだったと判断せざるを得ない。
 したがって、『宮澤賢治と三人の女性』における露に関する記述には捏造の「下根子桜訪問」を始めとして、悪意のある虚構や風聞程度のものも少なからずあることが判ったから、そこで語られている露は捏造された〈悪女・高瀬露〉であり、同書は露に関しては伝記などではなくて、悪意に満ちたゴシップ記事に過ぎなかったと結論するしかない。おのずから、そのような『宮澤賢治と三人の女性』を元にして露は〈悪女〉であったなどとはもう言えないという事は明らか。またそれは、この章の冒頭(113p)で述べたように、
高瀬露は、しばしば下根子桜の宮澤家別宅を訪れて賢治を助け、しかも賢治とは少なくともある一定期間オープンで親密なよい関係にあり、賢治歿後は師と仰ぎながら偲ぶ歌を折に触れて詠んでいることが公になっていて、しかも長きにわたって信仰の生涯を歩み通したクリスチャンであった。
のだから、当然の帰結であろう。
 そして、そもそも賢治と露の間の関係で露のことを「悪女」だと仮に謗るのであれば、父政次郎から賢治は「女に白い歯をみせるからだ」(『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房)48p)とか、「おまえの不注意から起きたことだ」(『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)89p)とこの件で強く叱責されたということだから、少なくとも賢治も「悪男」だと謗らねばならない。しかし実態は、賢治はそうでなくて露独りだけが悪女にされてきたからあまりにもアンフェアであり、逆に、このようなアンフェアな実態もまた、〈悪女・高瀬露〉は何らかの悪意によって捏造・流布されたものであるということを教えてくれる。
             〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)128p~〉
ということも言えるはずだ。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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