《創られた賢治から愛される賢治に》
平出隆氏がご自身の論考「宙吊りの詩と行為」の中で、『宮沢賢治の彼方へ』に関わって次のようなことを述べていた。 書くという行為は不可逆性のゆえに作品はけっして現実に還元されることはない、という作家にとってのいわば公準は、読む側にとってもまた基本的な真理である。
<『ユリイカ 詩と批評』(青土社、第四巻 第九号、1972年)202pより>たしかに平出氏がこう仰るとおりであり、「読む側にとってもまた基本的な真理である」ということは以前から私もわかってはいたつもりである。だが、どうも賢治の場合だけはそうはいかなかった。このことについては以前〝実生活に還元可能とは限らない〟で反省したところであり、つい最近まで賢治だけは別格であったようで、私はその呪縛から逃れることが出来ずにいた。そしてまた、申し訳なかったことだが、多くの場合に多くの人も戸惑うことなく還元しているとついつい私は思い込んでいた。
それがこの頃になってやっと、賢治の場合にも「作品はけっして現実に還元されることはない」という意識と態度を私は常に持てるようになってきたのだが、平出氏のこの主張を知って、それはさらに確実なった。
賢治の作品といえども検証作業というフィルターを通過させてこそ初めて、その作品から実生活に還元できる部分と出来ない部分とが分離できるのであって、賢治の作品と雖もこの不可逆性から逃れるわけにはいかない。
と、改めてつくづくそう思った。併せて、管見故の誤解かもしれないが、このようなことを話題にするのは宮澤賢治の場合だけであり、他の作家の場合にはこのようなことがことさら論議されるようなことはないのではなかろうかとも思った。そしてできれば、なぜこうなったのだろうか、こうなっているのだろうかということも、いつか一度少し考えてみなければならないと心に留めた。
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
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