みちのくの山野草

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妹尾の日記と新渡戸稲造

2018-02-23 10:00:00 | 法華経と賢治
《『大凡の日々-妹尾義郎と宗教弾圧』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
 先に、理崎啓氏は『大凡の日々-妹尾義郎と宗教弾圧』の「序」で、
 妹尾義郎は日蓮主義の社会主義者、という希有な存在として知られている。
紹介しているということは既に述べたが、実は妹尾にはもう一つ稀有なことがあると同氏はいう。それは、
 もう一つの稀有は日記で、明治42年から昭和36年の逝去直前まで、五十年に及ぶ厖大な日記を書き遺している。
             〈5p〉
ことだと。
 そして、この章「一、大望、蹉跌」の始めの方で、理崎氏は妹尾がそのような日記を書き続けた理由を、
 妹尾日記は、この言葉が契機となって始まったのであろう。五十年以上継続したのも、この新渡戸の言葉を忠実に実行した成果ではなかったのか。
             〈22p〉
と推測していた。そしてその「新渡戸の言葉」の新渡戸とは、先に少し触れたように、妹尾が第一高等学校在学時の校長であったあの新渡戸稲造のことである。妹尾は明治41年に第一高等学校に入学したわけだが、、その年の最後の講義で、その新渡戸は、
 一年の計は元旦にあり、として何か新しい決心をするように勧めている。…(投稿者略)…
 妹尾が元旦に決意を認めたのも、人格を磨くために自己を見つめようとしたのも、新渡戸のこの言葉に従ったものであろう。また、新渡戸は何か条かの提案をしている。まず日記をつける。これはつまらぬことのようだが、決心しただけでは何も変わらない。小事といえども継続していけば大きな力になる。日記の効用は一、二に留まらない、とにかく継続だ。
             〈22p〉
ということを理崎氏は教えてくれている。もちろん、継続した妹尾もあっぱれだが、新渡戸の出身県に、しかも「新渡戸記念館」がある花巻に住んでいる私としては、今まで以上に新渡戸稲造を誇らしく思えるようになった。

 そして理崎氏は次のようなエピソード、
 一高の自治祭は校長や教授の講演などがあり、その後茶話会が開かれた。その折、一人の学生が壇に上がって新渡戸の八方美人を激しく批判した。…(投稿者略)…一高が退廃的になったのは校長の責任、と追及したのである。
            〈23p〉
があったことを紹介し、続けて、追及を受けた校長新渡戸の対応を次のように紹介していた。
 そんな中、新渡戸はおもむろに登壇して、穏やかに話し始めた。加藤清正の例から武士道を語り、自分も武士の片われであるからいざという時は腹も切る、男子としては笑って毒杯をあおいだソクラテスになりたい。不信任を公にするなら正々堂々しなさい、と胸中から覚書を取りだして一読した。野次はまったく止み、雨のような拍手が起こった。中には泣きだす学生もいたという。これが、後々まで語り草になった一時間以上も及ぶ名演説である。
            〈23p〉
 そうなんだ、流石と、このような新渡戸のエピソードを知らなかった私は感心した。そして、あの『武士道』を書いたからといって高く評価されているだけでなく、それを実践せんと常に心掛けていたこともあったのか。理論だけではなく実践も伴っていたのだ、とである。

 さらに理崎氏は続けて、次のようなことも教えてくれている。
 この演説に対しては、妹尾は
   嗚呼此夜、余は生きたる英雄に接せり。生きたる理想の人物を得たり。
と日記に書き記し、川西なる学生は「我は泣きぬ、叫びぬ」と書き、さらに、
 新渡戸が「不詳男一匹と生まれしからには、月給百円や二百円で自分の良心をまげてまでの汚き話をしようとは思っておらぬ」と断じた。
ということなどを自分の日記に書き記しているという。
ということを。昨今曲学阿世の徒が結構いるのではなかろうかと訝っていた私には、ますます新渡戸稲造のスケールがでっかく見えてきた。
    妹尾にとっては生きたる理想の人物新渡戸稲造
だったのだ。

 なお、一高弁論部は徳冨蘆花を招聘して講演を依頼したところ、蘆花は
 「新しいものは常に謀反となる。自ら謀反人となることを恐れてはならない」
と学生を叱咤した。この演説は出席した学生たちに大きな影響を与えた。これを恐れた政府は、校長の責任を追及、新渡戸は譴責処分となった。
            〈25p〉
と理崎氏は述べていた。この「新しいものは常に謀反となる。自ら謀反人となることを恐れてはならない」という箴言は、言われてみれば、昨今私自身がやっている「真実を明らかにすること」は、相手から見ればまさに謀反の如きもだと知り、さりとて「真実のためには己を枉げたくないと覚悟を決めている」ところでもあり、蘆花のこの金言は私を応援してくれているものと勝手に解釈した。

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
等もその際の資料となり得ると思います。

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