《創られた賢治から愛すべき賢治に》
観念としての「本統の百姓」さて先に私は
賢治が下根子桜に移り住んでいた2年4ヶ月の間に、賢治が自分の田圃で稲を育てたことが一度もなかった
と述べたが、このことに関連しては賢治が松田甚次郎等に対して語ったという次のような発言 日本の農村の骨子は地主でも無く、役場、農会でもない。実に小農、小作人であつて将来ともこの形態は変らない。…(略)…君達だつて、地主の息子然として学校で習得したことを、なかば遊び乍ら実行して他の範とする等は、もつての他の事だ。真人間として生きるのに農業を選ぶことは宜しいが、農民として真に生くるには、先づ真の小作人たることだ。小作人となって粗衣粗食、過労と更に加わる社会的経済的圧迫を経験することが出来たら、必ず人間の真面目が顕現される。黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ。
<『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>があったということなので、なおさら賢治の持つこのようなダブルスタンダード(己は為さずに、他人にそれを為せという)をどう理解すればいいのかと私は苦しむ。もしこの発言内容が賢治の発言を正しく伝えているとするならば。
なにゆえ賢治は「本統の百姓になる」と宣言しておきながら、当の本人賢治自身は小作人になることもせずに、松田甚次郎には小作人になれと、ある意味いわば「本統の百姓になれ」と半ば強要したのだろうか。他人に対してはこのように“訓へ”ながら、賢治自身は父から田圃をもらってそれを耕そうとなぜしなかったのだろうか(松田甚次郎は早速ふるさとに帰って父から六反歩の旱魃田をもらって小作人になった。一方、当時賢治の父政次郎は下根子桜周辺にも小作地を所有していたのだが、賢治は田圃はもらっていない)、と私は極めて理解に苦しむ。
となればこれを理解する私の唯一の方途は、賢治の宣言した「本統の百姓」とは先に挙げた“①”でも“②”でもなく、
「本統の百姓」と賢治が言ったところのそれはあくまで賢治の観念としての「本統の百姓」であり、その時もその後もほとんど実体の伴っていないものであった。
と判断するしかなさそうだ。そしてそもそも、賢治は「本統の百姓になる」と言ったわけだがこの「本統」の意味はそれこそ本当は何であり、「本統の」とあえて修飾した賢治の拘りは一体何だったのだろうか。もしかするとこの拘りがかえって災いして、下根子桜からのあっけない撤退を招いたのではなかろかとさえ私には思えてしまう。なぜならば、「本統の」と修飾してしまうとそこには理念が絡んでくるからである。
しかし、そんなことに拘ったところで先の“①”や“②”のような意味での「百姓」になれないことは明らかだろう。それは、賢治が大正15年3月31日に受けた取材に答えていた発言内容、すなわち翌日の『岩手日報』に載った例の新聞報道内容を読めば直ぐにわかる。また、賢治が「本統の百姓」の内包的定義をどのようにしていたかはさておき、賢治が下根子桜において実際していた「農作業」を寄せ集めてその外延的な定義を試みようとしても、その実際の「農作業」の内容を思い起こしてみればそれも到底無理なことはやはり明らかだ。
だから、賢治は「本統の」などということに拘らずに、せいぜい「本物の百姓になる」とか、単に「百姓になる」と宣言していたならば案外容易に実体を伴ったそれになることができて、もっともっと違った実り多い展開が下根子桜でできたのではなかろうか。
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