《創られた賢治から愛すべき賢治に》
「宮澤賢治先生を語る會」よりそれは、「宮澤賢治先生を語る會」からである。
昭和18年9月に発行された『宮澤賢治素描』(關登久也著、共榮出版)所収の「座談会」の中に、高瀬露に関連して次のようなことが記されている。
宮澤賢治先生を語る會
日 時 昭和十年頃
出席者 町の青年K(高橋慶吾のこと) 村の青年C(伊藤忠一のこと) 同じくM(伊藤克己のこと)
…(略)…
K 先生の御病気は昭和二年の秋ごろから惡くなつたと思うが――。
M よく記憶にないが東京へ行つてからだと思ふ。東京でエス語、セロ、オルガンなど練習されたという話だつた。
K 雪のうんと降つた日、夜遅くまでお話を聞いたことがあるがあの日は愉快だつたな――。それからあの女の問題で騒いだのは何時頃だつたか。
C 性慾に就ての話は随分聞いたが記憶に残つてゐない。たゞ大事だと思つて聞いたことは性慾を、藝術とか勞働方面に使へ、とよく仰言つた。
K 先生は仕事をするのに何時から何時まで働いたのだらう。
C 朝は早かつた。讀書して、ひとまづ畑に出られ午前十時頃歸られる。再び讀書をして晝飯を食ひ、また労働に出かけられ、夕方歸つてから讀書という風で、それが病氣になるまで續けられた。
K この村の人たちはたゞ道楽に仕事をやつてゐたと思つたらうな。
M さうだ、誰一人先生の生活に理解のある人はなかつたと思ふ。
K この次の集まりには、先生の生活上のことなどに就いて話し合ひたい。それから前にも言つたがあの女のことで騒いだことがある。私の記憶だと、先生が寝ておられるうちに女が來る、何でも借りた本を朝早く返しに來るんだ。先生はあの人を來ないやうにするために随分苦労をされた。門口に不在と書いた札をたてたり、顔に灰を塗つて出た事もある。そして御自分を癩病だと云つてゐた。然しあの女の人はどうしても先生と一緒になりたいと云つていた。
何時だつたか、西の村の人達が二三人來た時、先生は二階にゐたし、女の人は臺所で何かこそこそ働いてゐた。そしたら間もなくライスカレーをこしらえて二階に運んだ。その時先生は村の人たちに具合が惡がつて、この人は某村の小學校の先生ですと、紹介してゐた。餘つぽど困つて了つたのだらう。
C あの時のライスカレーは先生は食べなかつたな。
K ところが女の人は先生にぜひ召上がれといふし、先生は、私はたべる資格はありませんから、私にかまはずあなた方がたべて下さい、と決して御自身はたべないものだから女の人は随分失望した様子だつた。そして女は遂に怒つて下へ降りてオルガンをブーブー鳴らした。そしたら先生はこの邊の人はひ晝間は働いてゐるのだからオルガンは止めてくれと云つたが、止めなかつた。その時は先生も怒つて側にゐる私たちは困つた。そんなやうなことがあつて後、先生はあの女を不純な人間だと云つていた。
C 何時だつたか先生のところへ行った時、女が一人ゐたので、「先生はをられるか、」と聞いたら、「ゐない」と云つたので歸らうかと思つて出て來たら、襖をあけて先生は出て來られた時は驚いた。女が來たのでかくれてゐたのでらろう。
K あの女は最初私のところに來て先生を紹介してくれといふので私が先生へ連れて行つたのだ、最初のうちは先生も確固した人だと賞めてゐたが、そのうちに女が私にかくれて一人先生を尋ねたり、しつこく先生にからまつてゆくので先生も弱つて了つたのだらう。然し女も可哀想なところもあるな。
<『に発行された『宮澤賢治素描』(關登久也著、共榮出版、昭和18年9月)245p~より>日 時 昭和十年頃
出席者 町の青年K(高橋慶吾のこと) 村の青年C(伊藤忠一のこと) 同じくM(伊藤克己のこと)
…(略)…
K 先生の御病気は昭和二年の秋ごろから惡くなつたと思うが――。
M よく記憶にないが東京へ行つてからだと思ふ。東京でエス語、セロ、オルガンなど練習されたという話だつた。
K 雪のうんと降つた日、夜遅くまでお話を聞いたことがあるがあの日は愉快だつたな――。それからあの女の問題で騒いだのは何時頃だつたか。
C 性慾に就ての話は随分聞いたが記憶に残つてゐない。たゞ大事だと思つて聞いたことは性慾を、藝術とか勞働方面に使へ、とよく仰言つた。
K 先生は仕事をするのに何時から何時まで働いたのだらう。
C 朝は早かつた。讀書して、ひとまづ畑に出られ午前十時頃歸られる。再び讀書をして晝飯を食ひ、また労働に出かけられ、夕方歸つてから讀書という風で、それが病氣になるまで續けられた。
K この村の人たちはたゞ道楽に仕事をやつてゐたと思つたらうな。
M さうだ、誰一人先生の生活に理解のある人はなかつたと思ふ。
K この次の集まりには、先生の生活上のことなどに就いて話し合ひたい。それから前にも言つたがあの女のことで騒いだことがある。私の記憶だと、先生が寝ておられるうちに女が來る、何でも借りた本を朝早く返しに來るんだ。先生はあの人を來ないやうにするために随分苦労をされた。門口に不在と書いた札をたてたり、顔に灰を塗つて出た事もある。そして御自分を癩病だと云つてゐた。然しあの女の人はどうしても先生と一緒になりたいと云つていた。
何時だつたか、西の村の人達が二三人來た時、先生は二階にゐたし、女の人は臺所で何かこそこそ働いてゐた。そしたら間もなくライスカレーをこしらえて二階に運んだ。その時先生は村の人たちに具合が惡がつて、この人は某村の小學校の先生ですと、紹介してゐた。餘つぽど困つて了つたのだらう。
C あの時のライスカレーは先生は食べなかつたな。
K ところが女の人は先生にぜひ召上がれといふし、先生は、私はたべる資格はありませんから、私にかまはずあなた方がたべて下さい、と決して御自身はたべないものだから女の人は随分失望した様子だつた。そして女は遂に怒つて下へ降りてオルガンをブーブー鳴らした。そしたら先生はこの邊の人はひ晝間は働いてゐるのだからオルガンは止めてくれと云つたが、止めなかつた。その時は先生も怒つて側にゐる私たちは困つた。そんなやうなことがあつて後、先生はあの女を不純な人間だと云つていた。
C 何時だつたか先生のところへ行った時、女が一人ゐたので、「先生はをられるか、」と聞いたら、「ゐない」と云つたので歸らうかと思つて出て來たら、襖をあけて先生は出て來られた時は驚いた。女が來たのでかくれてゐたのでらろう。
K あの女は最初私のところに來て先生を紹介してくれといふので私が先生へ連れて行つたのだ、最初のうちは先生も確固した人だと賞めてゐたが、そのうちに女が私にかくれて一人先生を尋ねたり、しつこく先生にからまつてゆくので先生も弱つて了つたのだらう。然し女も可哀想なところもあるな。
これは昭和10年頃の座談会だというから、賢治が没2年後に実施されたものとなろうが、ここにも高橋慶吾の意図的な言動、不自然さが垣間見られる。
それは、一度高橋が
それからあの女の問題で騒いだのは何時頃だつたか。
と話を振ろうとしたが、他の二人は乗ってこない。ところが、高橋は
この次の集まりには、先生の生活上のことなどに就いて話し合ひたい。
と座談会を打ち切ろうとしたのかと思いきや、
それから前にも言つたがあの女のことで騒いだことがある
とまたぞろその話を持ち出し、そしてこの話で座談会は尻切れで終わっているからである。
しかも、この座談会の記録者は高橋慶吾であるということを小倉は『「雨ニモマケズ手帳」新考』の115pで明かしている。併せて、その後に高橋が〝次の集まりには、先生の生活上のことなどに就いて話し合ひ〟を実施したということは伝わっていないようだから、高橋が企画したと思われるこの「宮澤賢治先生を語る會」の目的は、この座談会の最後のことを話し合い、それを公にしたかったためであろうということが言えそうだ。
以上、一連の高橋慶吾の言動からは彼には何かしらの思惑があったということをやはり感ぜざるを得ない。それは、彼に関しては奇妙なことがもう一つあるからでもある。次回はそのことに関して投稿したい。
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
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