みちのくの山野草

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故入沢康夫氏に感謝(クレーマー退却)

2018-12-07 10:00:00 | 賢治関連
〈『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』〉

 そもそも、私の件の〈仮説〉<*1>は検証できたものだから、その反例が見つからない限りはという限定付きの「真実」となる (このことは一般論でもある。言い換えれば、検証できた仮説を棄却できるものはその反例であり、棄却させたければ反例を一個突きつければいいだけの話であるし、それでしか検証できた仮説を棄却させることはできない<*2>。これが、「仮説検証型研究」という手法の凄さであり、これだけの偉力を有する学問的武器を私は知らない)。
 ところが、その中心人物のH氏は、この「仮説検証型研究」というものがよくお解りになっておられないようで、私が検証できた「賢治昭和二年上京説」を否定せんとして、突如『大正15年11月に賢治は上京した』と主張し出したのだった (おそらく、同氏は反例を見つけることができなかったのでこんなことを言い出したのだろうが)。
 そこで私は、ならば、その仮説『大正15年11月に賢治は上京した』をご自身で検証なさってその論考を公にすればいいでしょう、それがH氏のなすべきことですよ、と助言した。だがしかし、その時もそれ以降もこの仮説『大正15年11月に賢治は上京した』をH氏が検証できたという連絡は私にはないし、それに関する論考を発表したとも聞いていない。その一方で、そのなすべきことはなさらずに拙ブログのコメント欄等を通じて、H氏はその後もなにやかにやと高尚な「学問」を私に披瀝し続けるのだった (私の仮説に反例を突きつけてくだされば私は潔くそれを棄却するというのに、そんなことをなさらずにである。だから私からすれば単なるクレームにしか見えかったので、正直うんざりだった)。

 そこで、私もいつまでも非生産的な論争はしたくなかったので、〝3618 一連のクレームから透けて見えること(増補版)〟において、
 実際、この私の「賢治昭和二年上京説」に対しては著名な宮澤賢治研究家のお一人が、この説を私が本ブログに掲載し終えた際に、
「賢治の十回目の上京(=賢治昭和二年の上京:鈴木註)の可能性」に関するシリーズの完結をお慶び申します。「賢治と一緒に暮らした男」同様に、冊子として、ご事情もありましょうがなるべく早く上梓なさることを期待致します。
というコメントを寄せてくださって、その出版を薦めてくださった。
ということを紹介したならば、H氏やそのお仲間たちはその「著名な宮澤賢治研究家のお一人」がどなたかすぐお判りになったようで、その後はそれまでのような誹謗中傷やクレームはまずなくなった。だから私は、この「著名な宮澤賢治研究家のお一人」がクレーマーを退却させて下さったと感謝し、安堵したのだった。

 そして、先に「このうんざりする状態から私を救って私を下さったのも入沢康夫氏だった」と述べておいたように、この「著名な宮澤賢治研究家のお一人」とは入沢康夫氏のことであったのである。

 というわけで、入沢康夫氏からはいろいろなことを教わったり、励まされたり、そして助けられたりした。ついては、改めてもう一度深く感謝申し上げ、厚く御礼申し上げたい。そして、ご逝去を悼み、ご冥福をお祈りする次第である。

<*1:註> この「仮説」とは、例の〈仮説2〉のことである。具体的には、
 〈仮説2〉賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、しばらくチェロを猛勉強していたが病気となり、三ヶ月後の昭和3年1月頃に帰花した。
という仮説のことである。
 そしてこの仮説は検証できたので、これに伴って現在の、
(大正15年12月2日)一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れがたく冷たい腰かけによりそっていた(*)。
            <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)>
は棄却されねばならない。それはもちろん、現定説の典拠となっている「ものと見られる」というところの、〝関『随聞』二一五頁〟自体が実は同年譜の「大正15年12月2日」の記載内容の反例になっているからである。
 そしておのずから、
・大正15年12月2日:〔柳原、〕澤里に見送られながら上京(この時に「セロを持ち」という保証はない)。
・昭和2年11月頃:霙の降る寒い夜、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」と賢治は言い残し、澤里一人に見送られながらチェロを持って上京。
・昭和3年1月頃:約三ヶ月間滞京しながらチェロを猛勉強したがそれがたたって病気となり、帰花。漸次身軆衰弱。
というように「賢治年譜」は修訂されねばならない。
<*2:註> この世の中、殆どが仮説から出来上がっているわけで、その反例がないものだけが生き残って定説になっているにすぎない。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

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 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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