みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

賢治「やけくそ」になって営業

2021-03-14 12:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
【東北砕石工場技師時代の賢治(1930年頃 撮影は稗貫農学校の教え子高橋忠治)】
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>

 では今度は「自身にノルマを課す」という項についてである。そこでは、四月一三日付東蔵宛の手紙を紹介ているのだが、その中で挙げられているタンカル販売の交渉先は、
・岩手県購聯
・宮城県農務課
・宮城県の大地主
・組合
・一流肥料商
・秋田県購聯
             〈『あるサラリーマンの生と死』(佐藤竜一著、集英社新書)140p〉
であった。
 そこで私は自分が迂闊だったことを知る。「東北砕石工場花巻出張所」の所長であった賢治の仕事は基本的には「卸」であり「小売り」ではなかったことを理解できずにいたことをだ。戸別販売のセールスマンというよりは、上掲のような組織や大地主に大量に売り込むことが賢治の主な営業の中身だったのだ。どうやら、個々の農家を個別に訪ねてタンカルを買って貰おうということではなかったのだ、ということにやっと気付いた。
 そして佐藤氏は引き続いて、賢治は販路拡大のために秋田にも営業に出かけたということ、しかしその出張は失敗だったということなども紹介していた。そこで、賢治は一生懸命営業をしているのだがあまり成果が上がらず焦っているようだ、と佐藤氏は推し量っていたのだった。
 また、同項で紹介している四月二二日付東蔵宛の手紙によれば、
 本日は大曲よりやけくそに各組合及農会を歩き候処犬も歩けば棒に当たるの式にて…(投稿者略)…
             〈同142p〉
ということだから、賢治が秋田県大曲を訪ねた際の訪問先は「各組合及農会」だから、賢治がタンカルの販売に一生懸命だったことはもちろんだったであろうが、少なくとも個々の農家に対する個別販売で一生懸命だったということではなかったいうことが、これでほぼ断定できそうだ。それも、佐藤氏も言っているように賢治は「やけくそに」なってやっていたのであったということになりそうだ。昭和六年の二月末~三月初めであればダイレクトメールも出してからだったのに、同年四月二二日頃になると布石を打たず戦略もないままに、賢治は「やけくそに」なって営業していたということになりそうだ。賢い賢治が何故にだろうか? それとも、賢治ってもともとそういう性向があったのだろうか。熟慮し、用意周到に準備した上で行動に移るという事が実は苦手だったとか……。あれっ、これはまずいぞ、大正10年の家出も、花巻農学校の退職も、下根子桜での暮らしも、そしてこの東北砕石工場嘱託も皆その性向のなせる業だったとも見えなくなってきた。

 続きへ
前へ 
 〝賢治の「稲作と石灰」〟の目次へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

***************************『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)の販売案内*************************
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,650円(本体価格1,500円+税150円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
           〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
                      電話 0198-24-9813
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 東和町鶯沢(3/9、フクジュソ... | トップ | 猫の額(3/11) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治の「稲作と石灰」」カテゴリの最新記事