みちのくの山野草

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第一章 杜撰 ㈠ あらゆることを疑い

2024-06-19 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(2021年6月25日撮影、岩手)

  第一章 杜撰
 さて、宮澤賢治に関して、大明 敦氏が「宮沢賢治と保阪嘉内の「決別」をめぐって」という論文の中で

 賢治の年譜としては最も信頼性が高いとされる『校本』の年譜に記されたことで、それを「説」ではなく「事実」として受け取った人も少なくなかったであろう。当時の筆者もまたその一人であった。

と危惧していた。私は「まさに」と頷いた。たしかに、「旧校本年譜」や『新校本年譜』に記載されている事柄はそうとは限らないのに、皆「事実」であると多くの方々は信じ込んでいるようだ。それは例えば、以下のようなことからも示唆される。

  ㈠ あらゆることを疑い
 不思議なことに、「昭和2年の賢治と稲作」に関する論考において、少なからぬ賢治研究者等がその典拠も明示せずに、しかも断定的な表現を用いてそれぞれ、

(a) その上、これもまた賢治が全く予期しなかったその年(投稿者註:昭和2年)の冷夏が、東北地方に大きな被害を与えた。〈『宮沢賢治 その独自性と時代性』翰林書房)152p〉
 私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。 〈同、173p〉
(b) 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。 〈『イーハトーヴの植物学』(洋々社)79p〉
(c) 一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。〈『宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p〉
(d) (昭和2年の)五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。〈『新編銀河鉄道の夜』(宮沢賢治著、新潮文庫)所収の年譜〉
(e) (昭和2年は)田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。 〈『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社)77p〉
(f) 中でも、一九二七・八年と続いた、天候不順による大きな稲の被害は、精神的にも経済的にも更にまた肉体的にも、彼を打ちのめした。 〈『宮澤賢治論』(桜楓社)89p〉

というような事柄を述べている。つまり、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の大凶作となった」という断定にしばしば遭遇する。
 しかし、いわゆる『阿部晁の家政日誌』によって当時の花巻の天気や気温を知ることが出来ることに気付いていた私は、そこに記載されている天候に基づけばこれらの断定〝(a)~(f)〟はおかしいと直感した。さりながら、このような断定に限ってその典拠を明らかにしていない。それゆえ、私はその「典拠」を推測するしかないのだが、

「旧校本年譜」には、昭和2年のこととして、
七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状を出す(書簡231)。福井規矩三の「測候所と宮澤君」によると、
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて来られていろいろと話しまた調べて帰られた。」───●
という。

と記載されている(『新校本年譜』も同様)し、確かに福井は「測候所と宮澤君」という追想において、

 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。 〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317p〉

と証言していたから、これか、この孫引きが「典拠」と推測されるし、かつ「典拠」と言えるはずだ。それは、私が調べた限り、これ以外に前掲の「断定」の拠り所になるようなものは他に見当たらないからだ。しかも、福井は当時盛岡測候所長だったからなおさらに、この証言を皆端から信じ切ってしまったのだろう。
 しかし、『阿部晁の家政日誌』に記載されている花巻の天候のみならず、それこそ福井自身が発行した『岩手県気象年報』(岩手県盛岡・宮古測候所)や『岩手日報』の県米実収高の記事、そして「昭和2年稲作期間豊凶氣温」(盛岡測候所発表、昭和2年9月7日付『岩手日報』掲載)等の一次情報によって、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」という事実は全くなかったということを容易に知ることが出来る。つまり、同測候所長のこの証言〝●〟は事実誤認だったのだ(詳しくは拙著『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)の65p~、〝㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」〟をご覧いただきたい)。
 そこで思い出すのは、石井洋二郎氏の鳴らす次の警鐘、

 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。〈「東大大学院総合文化研究科・教養学部」HP総合情報平成26年度教養学部学位記伝達式式辞〉

だ。しかも、私も岩手大学の学生の頃、先生方から『疑うことが学問の始まりだ』と口を酸っぱくして言われていたから、これは全ての場合の基本だと心掛けていたので、この警鐘には襟を正す。
 逆の言い方をすれば、「最も信頼性が高いとされる『校本』の年譜」はこの福井の証言〝●〟を毫も疑わず、まして検証もせず、裏付けも取っていなかったということになる。しかし、はたしてこんなことでいいのだろうか。門外漢で非専門家の私でさえも気付くのだから、「最も信頼性が高いとされる『校本』の年譜」であれば、当然一度は疑ってみるという基本に則っていたはずだし、そうすれば容易にこの〝●〟が事実誤認だと分かっただろうに、残念だ。要するに、同年譜は前掲の警鐘を蔑ろにしていたということであり、基本に則っていなかったということであり、延いては、筑摩書房はちょっと杜撰なところがあると言われても致し方なかろう。
 そして、今回の投稿の先頭で引用した、「賢治の年譜としては最も信頼性が高いとされる『校本』の年譜に記されたことで、それを「説」ではなく「事実」として受け取った人も少なくなかったであろう」ことが危惧される。実際、「それを「説」ではなく「事実」として受け取っ」た結果、先の〝(a)~(f)〟のような断定表現が為されたということを否定できない。
 そこで遠慮せずに言わせてもらうと、『校本』の年譜と雖も間違いがあり、その記載を鵜呑みには出来ず、先に引用した石井洋二郎氏の警鐘「あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」は我々読者自身にも必須だということを改めて思い知らされる。
 それから、もう一つ気になることは、この福井の証言〝●〟が筑摩書房の「賢治年譜」に初めて記載されたのは昭和52年出版の「旧校本年譜」においてであり、それ以前の『宮澤賢治全集第十二巻』(昭和44年)にも『宮澤賢治全集第十一巻』(昭和32年)にも記載されてはいない。
 というわけで、「最も信頼性が高いとされる『校本』の年譜」という評が危ぶまれることになってしまったのだが、実は似たような事は他にもある。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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