みちのくの山野草

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高瀬露と賢治の詩(〔聖女のさましてちかづけるもの〕)

2017-04-10 10:00:00 | 賢治作品について
<『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)より>

 さて、賢治がいわゆる『雨ニモマケズ手帳』に〔雨ニモマケズ〕を書き記した日は昭和6年11月3日

           <『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)より>
であったようだが、このブログのトップに掲げたように賢治はこの日から約10日前の10月24日に、佐藤勝治の言葉を借りれば、「彼の全文章の中に、このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない」(『四次元44』(宮沢賢治友の会)所収「賢治二題」より)と形容している次の詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕、
  ◎聖女のさましてちかづけるもの
   たくらみすべてならずとて
   いまわが像に釘うつとも
   乞ひて弟子の礼とれる
   いま名の故に足をもて
   われに土をば送るとも
             <『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』より>
を同手帳に書いていた。そして、佐藤は「賢治二題」でこのことを「これがわれわれに奇異の感を与えるのである」と評しているのだが、もちろんその通りだと私も思う。それは、この〔聖女のさましてちかづけるもの〕と〔雨ニモマケズ〕のそれぞれの日付は約10日間の違いしかないというのに、それぞれから受ける印象は両極端にあるとさえ思えて、賢治の精神状態の落差があまりにも大きすぎるからなおさらにである。何故だったのだろうか。

 このことに関連しては、『雨ニモマケズ手帳』研究の第一人者小倉豊文が次のようなことを論じていた。
 同手帳の32pと33pには、〔われに衆怨ことごとくなきとき〕がメモされているのだが、小倉豊文によればここには、
   ◎われに
    衆怨ことごとく
          なきとき
    これを怨敵
       悉退散といふ
   ◎
    衆怨
     ことごとく
          なし
              <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)116p>
と書かれていて、どちらの頁も〔聖女のさましてちかづけるもの〕が書かれた日と同じ10月24日に書かれたと推測している。
 そして、小倉は賢治がこの〔われに衆怨ことごとくなきとき〕をここに書き付けた理由を次のように解説している。
 恐らく、賢治は「聖女のさましてちかづけるもの」「乞ひて弟子の礼とれる」ものが、「いまわが像に釘う」ち、「われに土をば送る」ように、恩を怨でかえすようなことありとも、「わがとり来しは、たゞひとすじのみちなれや」と、いささかも意に介しなかったのであるが、こう書き終わった所で、平常読誦する観音経の「念彼観音力衆怨悉退散」の言葉がしみじみ思い出されたことなのであろう。そして、自ら深く反省検討して「われに衆怨ことごとくなきとき、これを怨敵悉退散といふ」、われに「衆怨ことごとくなし」とかきつけたものなのであろう。
            <前掲書119p~>
 このように小倉に解説してもらえば、10月24日に詠まれた〔聖女のさましてちかづけるもの〕とその約10日後に書かれたという〔雨ニモマケズ〕の間にある両極端とも思えるほどの賢治の心境の激変や感情の起伏が従前どうしても私には理解できなかったのだが、実は賢治は〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠んだ後にそのことを「自ら深く反省検討」していての〔雨ニモマケズ〕だったということであれば、腑に落ちる。実は一般にはそうは言われていないと思うのだが賢治周辺の人の中には、賢治は感情の起伏が激しかった<*1>と語っている人もいるということだから、そこが天才の天才たる所以の一つかもしれないが、少なくともこれら二つの間に〔われに衆怨ことごとくなきとき〕が書いてあったということならば、〔雨ニモマケズ〕がそれから約10日後に同手帳に書き記されていても分からない訳でもない。

「聖女」は露以上に当て嵌まる他の女性がいる
 さてそこで私がここで問題にしたいことは、佐藤勝治も小倉豊文もそして殆どの人々がこの「聖女のさましてちかづけるもの」の「聖女」を高瀬露と決めつけているが、そのことを裏付ける客観的な証言や資料が全く提示されていないということである。しかもそのことを誰も指摘していないようだ(実際私が検証してみたところ、そのようなものは存在していないということは拙論「聖女の如き高瀬露」で明らかにしたところである)。
 ではなぜそれにも拘わらず露は〈悪女〉にでっち上げられたのか。それはこの詩が関わっていて、その論理は、
 露はクリスチャンだ、クリスチャンは聖女だ、だからこの詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕は露のことを詠んでいる。
というあまりにも杜撰すぎる「三段論法」が採られたからのようだ。

 しかし、百歩譲って仮にこのような三段論法に従ったとしても、露より遥かにこの「聖女」に当て嵌まる蓋然性の高い女性が他に存在している。それは以下のようなことが言えるからである。
 まず、賢治が「聖女のさましてちかづけるもの」と詠んだ女性は露であると巷間言われているわけだが、もしそうであったとしならば賢治は相当執念深い。なぜなら、賢治が奇矯な行為までして露を拒絶したと言われているのは昭和3年の遅くても秋までだから、それから3年以上も経った昭和6年10月に、拒絶した露を〔聖女のさましてちかづけるもの〕において憤怒していることになるからだ。だからそうではなくて、常識的に考えるならば、昭和6年7月7日に森荘已池に対して賢治が「結婚するかもしれません」と打ち明けたというその相手伊藤ちゑ<*2>の方が遥かに蓋然性が高かろう。その上に、ちゑ自身は賢治と結婚する意志はなかったようだし、一方の賢治の方は「ずつと前に話があつてから、どこにも行かないで待つてゐるといはれると、心を打たれますよ」と昭和6年7月7日に森に打ち明けたという、その約3ヶ月半後の10月24日にこの〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠んだのだから、時間的な観点からいっても、この詩に詠まれたであろう蓋然性が高いのは露の方ではなくてちゑの方だったと言えるだろう。

 ところで、『光りほのかなれど―二葉保育園と徳永恕』(上笙一郎・山崎朋子著、教養文庫)によれば、二葉保育園の創設者の野口幽香と森島美根は、当時東京の三大貧民窟随一と言われていた鮫河橋に同園を開いて、寄附金を募ってそれらを元にして慈善教育事業、社会事業としての貧民子女の保育等に取り組んでいたという。そして創設者の二人、野口も森島も敬虔なクリスチャンであり、ちゑが勤めていた頃の同園の実質的責任者の徳永恕はクリスチャンらしくないクリスチャンだったという。ちなみに、現在でも同園は「キリストの愛の精神に基づいて、健康な心とからだ、そしてゆたかな人間性を培って、一人ひとりがしっかりとした社会に自立していけることを目標としています」という理念を掲げている。つまり当時のちゑは、スラム街の貧しい家の子どもたちのために保育実践等をしていて、いわば<セツルメントハウス>とも言える『二葉保育園』に勤めていた。
 当然、賢治が結婚してもいいと言っていたちゑだから、ちゑがそのような所で働いていることは賢治は知っていた<*3>であろうし、賢治からはちゑがまさに「聖女」<*4>のように見えたということは十分にあり得る。したがって、もしそのような女性から仮に裏切られてしまったと賢治が思い詰めたとすれば、それこそ
    ちゑ=聖女のさましてちかづけるもの
と言い募ってしまいたくなるのも人情だ。

 しかしながら、賢治はといえばその頃の賢治はもはやかつてのような賢治ではなくなっていた。ちなみに、賢治自身が
 禁欲は、けっきょく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病気になったのです。
とか、
 何か大きないいことがあるという、功利的な考えからやったのですが、まるっきりムダでした。
と、はたまた、
 その三四冊の春本や商売のこと、この性の話などをさして、
私も随分かわったでしょう――。
という。
「いや自分はそうは思いません。」
と答えたが、
「そう思う人があるかも知れませんね。」
とも答えた。
             <いずれも『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)108p>
と話し合ったということをあの森荘已池が活字にしているのだから、そこにあまり嘘はなかろう。したがって、もはや賢治はかつてのような賢治ではなくなってしまっていた。賢治は変節してしまったと言える。

 すると考えられることは、かつてのような賢治でなくなっていたことを敏感に察知したちゑは、セツルメント活動に身を捧げている自分の生き方とはその対極にあるような賢治にもはや惹かれることはなかったはずだから、賢治と結婚するのは到底無理だとちゑは改めて覚ったということである。すると結果的には、「ちゑと結婚してもいいと思い込んでいた賢治」をちゑは「振った」という形になってしまったわけだから、後々いくら森が『あなたは、宮澤さんの晩年の心の中の結婚相手だつた』(『宮澤賢治と三人の女性』116p)とちゑに迫っても、ちゑは賢治と結びつけられることをひたすら拒絶したのだという解釈もできる。いわば、ちゑの矜恃が賢治と結びつけられることをかたくなに拒絶させたとも見られる。

 とまれ、これで賢治が〔聖女のさましてちかづけるもの〕で「聖女のさまして」と詠んだ「聖女」とは、少なくとも、露ではなくてちゑの方である蓋然性が極めて高いということが導けたのだから、この詩を因にして〈悪女〉扱いされた可能性が極めて高い露にすれば踏んだり蹴ったりで、濡れ衣もいいところだ。そしてもちろんこのことは他のこととは違い、一人の人間の人格と尊厳に関わる人権問題だから早急に解決されねばならぬことだが、賢治研究者の誰一人としてこの〈悪女〉扱いに言及もせず、問題視してもこなかったことが私にはとても不思議でならない。関係者の人権意識の希薄さを嘆かずにはいられない。

 先に私は「聖女の如き高瀬露」で実証したように、巷間流布している〈高瀬露悪女伝説〉は確たる客観的な根拠もないままに、強いて挙げるならばこの一篇の詩篇〔聖女のさましてちかづけるもの〕の安直な解釈によって露は濡れ衣を着せられたと言えるので、このようなことが許されてよいはずがない。いわば冤罪によって一人の人間の尊厳を傷つけ人格を貶めるているからである。しかも、然るべき人たちがその裏付けも取らず、検証もせずに漫然とあるいは面白おかしく〈悪女伝説〉の再生産を繰り返してきたという歴史があり、今でもそれが放置されたままであるという嘆かわしい実態にある。

<*1:投稿者註> 〔雨ニモマケズ〕の中の連
    決シテ瞋ラズ
    イツモシヅカニワラッテヰル

に関しては、菊池忠二著『私の賢治散歩 下巻』によれば、羅須地人協会の隣人で協会員でもあったという伊藤忠一が次のようなことを菊池氏に対して語ったという。
 私が意外に思ったのは、隣人として、また協会員としての伊藤さんが、賢治のところへ気軽に出入りすることができなかったということである。
 「賢治さんから遊びに来いと言われた時は、あたりまえの様子でニコニコしてあんしたが、それ以外の時は、めったになれなれしくなど近づけるような人ではながんした。」というのである。
 同じような事実は、その後高橋慶吾さんや伊藤克己さんからもたびたび聞かされた。
 「とても気持ちの変化のはげしい人だった」という話なのだ。
              <『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)36p>
 あるいはまた、佐藤勝治が「賢治二題」の中に書いてあるのだが、佐藤がD(投稿者が付けた仮名)に無理矢理、『いやな思い出があつたらきかせてくれとたのんだ』ところ、
 Dさんは、ずいぶんためらつた後に、決心したように、実にいやなこと、それを思い出すと今でも腹わたがにえくりかえるようで、先生についてのすべてのたのしい思い出は消え去つてしまうといつて話し出した。
 話といつても簡単であつて、二つである。一つは、…(投稿者略)… 常にもなく威丈高に叱りつけた。Dさんはあまりの事に口もきけずに、だまつて叱られていた。
 もう一つの話は、Dさんがある人(A)に稲コキ用のモーターを手離したいからどこかえ(ママ)へ世話をしてくれとたのまれていた。そこでさいわい知り合い(B)でほしい人があつたので世話することにしていたら、村の三百代言(C)がこれで一もうけしようと割り込んで来た。そこで彼(C)は賢治に告げ口をしたのである。そこでDさんは賢治によびつけられ、長時間にわたつて叱りとばされた。つまり、Dさんは、Cの世話しかけているAのモーターを、Bと組んで安くAから取り上げようとしている。Cの取引の邪魔をし、Aをだましているというのである。話はまるであべこべなのだが、先生はぜんぜん弁解を受けつけず、村でも名高いCの嘘言だけをほんとにして、お前も見下げはてた奴だ、せつかく俺がこれ程お前のために何彼と心をつかつているのに、よくも裏切つたなと、さんざんな叱言である。Dさんも、この時はほんとに腹が立つたが、どうしても話を受けつけないのだからしまいには泣くより仕方がなかつた。
              <『四次元44』(宮沢賢治友の会)12p~>
と紹介している。
 したがって、「羅須地人協会時代」の賢治は「決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラッテヰル」という訳でもなかったということになりそうだ。
<*2:投稿者註> 再燃したちゑとの結婚話を持ち出して賢治は森荘已池に対して、
 「私は結婚するかもしれません――」と盛岡にきて私に語つたのは昭和六年七月で、東北砕石工場の技師技師となり、その製造を直接指導し、出來た炭酸石灰を販賣して歩いていた。最後の健康な時代であつた。

           <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)、104p>
<*3:投稿者註> 平成28年10月22日に当時伊藤ちゑが勤めていた「二葉保育園」を訪ねたところ、同園の責任者のお一人が、
    基本的には当時の同園の保姆はクリスチャンでしたから、伊藤ちゑもそうだったと思います。
と語っていた。
<*4:投稿者註> 萩原昌好氏は『宮沢賢治「修羅」への旅』の中で、
 ところでチヱさんには、特記事項がある。「島乃新聞」昭和五年九月二六日付の記事に

あはれな老人へ
毎月五円づつ恵む
若き女性――伊藤千枝子

とあって、島の老女に同情を寄せたチヱさん(当時二三歳)が、

 (前略)大正十五年夏転地療養中の現在北の山在住の伊藤七雄氏の看病に来島した同氏の妹本所幼稚園保母伊藤千枝子(本年二十三才)は隣のあばら家より毎夜開かるゝ藁打ちの音にいたく心を引かれ訪ねたところ誠に哀れな老婆なるを知り、測隠の心頻りにして滞在中実の母に対するが如く何彼と世話し、七雄氏全快とともに帰京し以後今日まで五六年の間忘るゝことなく毎月必ず五円の小為替を郵送して此の哀れな老婆に盡してゐるが誠に心持よい話である。

という記事が見える。
           <『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社)317p~より>
と紹介しており、ちゑは『二葉保育園』ではスラム街の子女の保育のためのセツルメント活動に取り組んでいただけではなくて、兄の看護のために伊豆大島に居た頃はこっそりと隣の老婆を助けたり、そこを去ってからもその老婆に毎月「5円」を送金し続けたりするような女性であったということだから、ちゑは自分にはストイックだが、他人にはとても優しいまさに「聖女」のような人だったと言えよう。

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【宣伝】 来る4月15日(土)、『賢治の広場』(花巻市上町・岩田ビル)において「宮沢賢治・花巻市民の会」主催『第三回 宮沢賢治カフェ』が開催されます。
 午後2時から1時間半程度で、その内容については2部構成で、
  ・第1部 おはなし「羅須地人協会時代の宮沢賢治」 鈴木守
  ・第2部 賢治作品の朗読 「葡萄水」「山の晨明に関する童話風の構想」 ざしきぼっこの会
というものです。
 第1部 「羅須地人協会時代の宮沢賢治」につきましては、私鈴木守が、拙著『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』を主に、併せて『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』も資料として用いながら、「羅須地人協会時代の賢治」の真実に迫りたいと思っております。

 なお、これらの二著につきましては当日お越しの方々には謹呈いたしますので、皆様どうぞお越し下さい。

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