《1 達谷窟》(2021年6月9日撮影)
《2 》(2021年6月9日撮影)
《3 》(2021年6月9日撮影)
《4 》(2021年6月9日撮影)
《5 磨崖仏》(2021年6月9日撮影)
《6 》(2021年6月9日撮影)
私の中学時代の亡き友人桑島正彦君(桑島法子の父)はしばしば、賢治の「原体剣舞連」を身振り手振りを交えながら朗詠したものだが、その巧さと迫力に圧倒された。
そして、勇壮というよりは逆におとなしいとさえも言えるような「雛子剣舞」(「子供念仏剣舞」とか「稚児剣舞」とも呼ばれる)を元にして、よくぞここまで勇猛果敢で、圧倒的迫力のある心象スケッチ「原体剣舞連」に創り上げたものよと、賢治のそのずば抜けた創造力に私はいたく感動し、感心する。
ちなみに、『原躰郷土史』(原体自治会)の中の〝原躰剣舞 江刺市指定無形民俗文化財〟という章によれば、
とのことである。
一方で、ここ達谷窟は、以前”エミシの”鬼””で触れたように、”エミシ・タムラマロ伝説”の中に出てくる悪路王が籠もっていた所でもあると伝えられているし、この悪路王とは宮澤賢治が上掲の詩『原体剣舞連(mental sketch modified)』の次の連に、
と登場させている人物でもある。
因みに『達谷窟毘沙門堂/別当達谷西光寺ホームページ』を見てみる”窟毘沙門堂縁起”には、
しかし申し訳ないが私はこの縁起を読んで違和感を持った。はたして実際の悪路王はここに書かれているような暴虐の限りを尽くした蝦夷の長だったのだろうか。おそらく悪路王は侵略者である坂上田村麻呂に対して、自分たちの同胞と土地と財産を守るために勇敢に戦っただけだったのではなかろうか、そう思えるからである。
前掲の賢治のメンタルスケッチには、悪路王の首は「刻まれ漬けられ」と詠まれているが、なにもそこまでされるほどの科も罪も悪路王にはなかったのではなかろうか。なんのことはない、蝦夷(もしかすると日高見国)の長として悪路王は皆から絶大な支持を受けていて尊崇されていたから、日高見国を征服したかった侵略者田村麻呂は斯くの如き見せしめをしただけのことではなかろうかと。
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《新刊案内》
『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(「露草協会」、ツーワンライフ出版、価格(本体価格1,000円+税))
は、岩手県内の書店で店頭販売されておりますし、アマゾンでも取り扱われております。
あるいは、葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として当該金額分の切手を送って下さい(送料は無料)。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
☎ 0198-24-9813
なお、目次は次の通りです。
また、2020年12月6日付『岩手日報』にて、『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』の「新刊寸評」。
《2 》(2021年6月9日撮影)
《3 》(2021年6月9日撮影)
《4 》(2021年6月9日撮影)
《5 磨崖仏》(2021年6月9日撮影)
《6 》(2021年6月9日撮影)
私の中学時代の亡き友人桑島正彦君(桑島法子の父)はしばしば、賢治の「原体剣舞連」を身振り手振りを交えながら朗詠したものだが、その巧さと迫力に圧倒された。
原体剣舞連
(mental sketch modified)
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
こんや異装のげん月のした
鶏の黒尾を頭巾にかざり
片刃の太刀をひらめかす
原体村の舞手たちよ
鴇いろのはるの樹液を
アルペン農の辛酸に投げ
生しののめの草いろの火を
高原の風とひかりにさゝげ
菩提樹皮と縄とをまとふ
気圏の戦士わが朋たちよ
青らみわたる𤂖気をふかみ
楢と椈とのうれひをあつめ
蛇紋山地に篝をかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
dah-dah-sko-dah-dah
肌膚を腐植と土にけづらせ
筋骨はつめたい炭酸に粗び
月月に日光と風とを焦慮し
敬虔に年を累ねた師父たちよ
こんや銀河と森とのまつり
准平原の天末線に
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
Ho! Ho! Ho!
むかし達谷の悪路王
まつくらくらの二里の洞
わたるは夢と黒夜神
首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
青い仮面このこけおどし
太刀を浴びてはいつぷかぷ
夜風の底の蜘蛛おどり
胃袋はいてぎつたぎた
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
さらにただしく刃を合はせ
霹靂の青火をくだし
四方の夜の鬼神をまねき
樹液もふるふこの夜さひとよ
赤ひたたれを地にひるがへし
雹雲と風とをまつれ
dah-dah-dah-dahh
夜風とどろきひのきはみだれ
月は射そそぐ銀の矢並
打つも果てるも火花のいのち
太刀の軋りの消えぬひま
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
太刀は稲妻萓穂のさやぎ
獅子の星座に散る火の雨の
消えてあとない天のがはら
打つも果てるもひとつのいのち
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
<『校本宮澤賢治全集第二巻』(筑摩書房)105p~>(mental sketch modified)
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
こんや異装のげん月のした
鶏の黒尾を頭巾にかざり
片刃の太刀をひらめかす
原体村の舞手たちよ
鴇いろのはるの樹液を
アルペン農の辛酸に投げ
生しののめの草いろの火を
高原の風とひかりにさゝげ
菩提樹皮と縄とをまとふ
気圏の戦士わが朋たちよ
青らみわたる𤂖気をふかみ
楢と椈とのうれひをあつめ
蛇紋山地に篝をかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
dah-dah-sko-dah-dah
肌膚を腐植と土にけづらせ
筋骨はつめたい炭酸に粗び
月月に日光と風とを焦慮し
敬虔に年を累ねた師父たちよ
こんや銀河と森とのまつり
准平原の天末線に
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
Ho! Ho! Ho!
むかし達谷の悪路王
まつくらくらの二里の洞
わたるは夢と黒夜神
首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
青い仮面このこけおどし
太刀を浴びてはいつぷかぷ
夜風の底の蜘蛛おどり
胃袋はいてぎつたぎた
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
さらにただしく刃を合はせ
霹靂の青火をくだし
四方の夜の鬼神をまねき
樹液もふるふこの夜さひとよ
赤ひたたれを地にひるがへし
雹雲と風とをまつれ
dah-dah-dah-dahh
夜風とどろきひのきはみだれ
月は射そそぐ銀の矢並
打つも果てるも火花のいのち
太刀の軋りの消えぬひま
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
太刀は稲妻萓穂のさやぎ
獅子の星座に散る火の雨の
消えてあとない天のがはら
打つも果てるもひとつのいのち
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
そして、勇壮というよりは逆におとなしいとさえも言えるような「雛子剣舞」(「子供念仏剣舞」とか「稚児剣舞」とも呼ばれる)を元にして、よくぞここまで勇猛果敢で、圧倒的迫力のある心象スケッチ「原体剣舞連」に創り上げたものよと、賢治のそのずば抜けた創造力に私はいたく感動し、感心する。
ちなみに、『原躰郷土史』(原体自治会)の中の〝原躰剣舞 江刺市指定無形民俗文化財〟という章によれば、
原躰剣舞が、この地で演じられるようになったのは江戸時代末期のことで、江刺市岩谷堂の増沢に伝えられる増沢念仏剣舞(子供剣舞)から慶応元年(一八六五年)に伝授されたものである。
原躰剣舞が稚児剣舞(子供剣舞)で、女児も加わる所以として、「奥州平泉初代藤原清衡が豊田館に在ったとき、清原家衡の襲撃を受け一族郎党皆殺しの目に遭い、それを逃れることができた清衡が、一族の怨霊を供養するために剣舞を演じさせ、とくに亡き妻と子の怨霊供養を厚くするために女子と稚児の演ずる剣舞となった。」と伝えられている。
剣舞は、威嚇的に大地を強く踏んで悪霊を鎮める「反閇(へんばい)」の呪法と、念仏の法力を信ずる浄土信仰が結合して舞踏化された芸能といわれる。
原躰剣舞は別名子供念力念仏剣舞、或いは、雛子剣舞・稚児剣舞ともいわれるように、純真さ・清らかさに加え、一種の華やかさを持つ供養踊ともいえる。
<『原躰郷土史』(原体自治会)272pより>原躰剣舞が稚児剣舞(子供剣舞)で、女児も加わる所以として、「奥州平泉初代藤原清衡が豊田館に在ったとき、清原家衡の襲撃を受け一族郎党皆殺しの目に遭い、それを逃れることができた清衡が、一族の怨霊を供養するために剣舞を演じさせ、とくに亡き妻と子の怨霊供養を厚くするために女子と稚児の演ずる剣舞となった。」と伝えられている。
剣舞は、威嚇的に大地を強く踏んで悪霊を鎮める「反閇(へんばい)」の呪法と、念仏の法力を信ずる浄土信仰が結合して舞踏化された芸能といわれる。
原躰剣舞は別名子供念力念仏剣舞、或いは、雛子剣舞・稚児剣舞ともいわれるように、純真さ・清らかさに加え、一種の華やかさを持つ供養踊ともいえる。
とのことである。
一方で、ここ達谷窟は、以前”エミシの”鬼””で触れたように、”エミシ・タムラマロ伝説”の中に出てくる悪路王が籠もっていた所でもあると伝えられているし、この悪路王とは宮澤賢治が上掲の詩『原体剣舞連(mental sketch modified)』の次の連に、
こんや銀河と森とのまつり
准平原の天末線に
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
Ho! Ho! Ho!
むかし達谷の悪路王
まつくらくらの二里の洞
わたるは夢と黒夜神
首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
青い仮面このこけおどし
太刀を浴びてはいつぷかぷ
夜風の底の蜘蛛おどり
胃袋はいてぎつたぎた
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
<『校本 宮沢賢治全集 第二巻』(筑摩書房)より>准平原の天末線に
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
Ho! Ho! Ho!
むかし達谷の悪路王
まつくらくらの二里の洞
わたるは夢と黒夜神
首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
青い仮面このこけおどし
太刀を浴びてはいつぷかぷ
夜風の底の蜘蛛おどり
胃袋はいてぎつたぎた
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
と登場させている人物でもある。
因みに『達谷窟毘沙門堂/別当達谷西光寺ホームページ』を見てみる”窟毘沙門堂縁起”には、
一千二百年の昔、悪路王、赤頭、高丸等の蝦夷がこの窟に塞を構へ、女子供を掠めるなど暴虐の限りを盡し、国府もこれを制することが出来なくなった。そこで人皇五十代桓武天皇は坂上田村麿公を征夷大将軍に命ぜられ、蝦夷征伐の詔を下された。對するする悪路王等は達谷窟より三千餘の族徒を率いて駿河国清美關まで進んだが、大将軍が京を發するの報せをを聞くと、武威に恐れをなし窟に引き返し守りを固くした。
延暦廿年(八〇一)大将軍は窟に籠もり毒矢を雨す蝦夷を激戦の末打ち破り、悪路王、赤頭、高丸の首を刎ね、ついにこれを平定した。大将軍は戦勝は毘沙門天のご加護と感じ、その御禮に京の清水の舞台を模ねて九間四面の精舎を創建し百八躰の毘沙門天を祀り、國を鎮める祈願所とし、窟毘沙門堂(別名窟堂)と名付け桓帝御願の御寺とした。…(投稿者略)…
とある。延暦廿年(八〇一)大将軍は窟に籠もり毒矢を雨す蝦夷を激戦の末打ち破り、悪路王、赤頭、高丸の首を刎ね、ついにこれを平定した。大将軍は戦勝は毘沙門天のご加護と感じ、その御禮に京の清水の舞台を模ねて九間四面の精舎を創建し百八躰の毘沙門天を祀り、國を鎮める祈願所とし、窟毘沙門堂(別名窟堂)と名付け桓帝御願の御寺とした。…(投稿者略)…
しかし申し訳ないが私はこの縁起を読んで違和感を持った。はたして実際の悪路王はここに書かれているような暴虐の限りを尽くした蝦夷の長だったのだろうか。おそらく悪路王は侵略者である坂上田村麻呂に対して、自分たちの同胞と土地と財産を守るために勇敢に戦っただけだったのではなかろうか、そう思えるからである。
前掲の賢治のメンタルスケッチには、悪路王の首は「刻まれ漬けられ」と詠まれているが、なにもそこまでされるほどの科も罪も悪路王にはなかったのではなかろうか。なんのことはない、蝦夷(もしかすると日高見国)の長として悪路王は皆から絶大な支持を受けていて尊崇されていたから、日高見国を征服したかった侵略者田村麻呂は斯くの如き見せしめをしただけのことではなかろうかと。
続きへ。
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『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(「露草協会」、ツーワンライフ出版、価格(本体価格1,000円+税))
は、岩手県内の書店で店頭販売されておりますし、アマゾンでも取り扱われております。
あるいは、葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として当該金額分の切手を送って下さい(送料は無料)。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
☎ 0198-24-9813
なお、目次は次の通りです。
また、2020年12月6日付『岩手日報』にて、『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』の「新刊寸評」。
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