今から100年ぐらい前、つまり1905年、そして1915年に、アインシュタインによってそれぞれ特殊相対性理論、一般相対性理論が発表された。それと並行するように、その頃から原子の構造が解明され、ミクロの物質、つまり素粒子の振る舞いなどの研究が進み、量子力学と言われる新しい物理学が誕生した。その相対性理論と量子力学、この2つによって、今では宇宙がどのように造られてきたかということが、随分わかるようになってきた。
そして驚かされるのは、小はミクロの物質から、大は天体まで、それらの生成や運動が数学的秩序の上に成り立っていて、その運動は方程式で現わされるということである。
そのために――まだ多くの謎があるが――ともかく、それらの運動に関する方程式をコンピュータに入力することで、どのように宇宙ができてきたかをシミュレーションすることができ、私たちはその宇宙生成過程の一部を映像で見ることができるぐらいになっている。
宇宙の生成過程に数学的秩序があるなら、宇宙が偶然にできたとは考えにくい。偶然の産物ではなく、その背後に、眼に見えない智慧が働いていて、その智慧によって生成過程が導かれ、原子、素粒子、あるいは天体等の動きが統制されている、そう考えても決して突飛とは言えないだろう。 (そこに智慧があるということは、そこに生命があるともいえる) 多くの研究者たちは、その美しいほどの数学的秩序に感動し、神秘を感じているらしい。あるいは偉大なる生命を感じているかもしれない。だからこそ、知れば知るほど奥深いものを感じ、興味が尽きないのではないか。
さて、人間には黒人、白人、その中間の黄色人種と言われるものがあるが、皮膚の色は違っても人体の構造は同じであるから、その設計者は同じといえるだろう。
人体を構成しているその材料(窒素、炭素、カルシウムなど)は、星の中でつくられ、星が寿命をむかえて爆発し宇宙に飛び散り、それがやがて人体をつくりだす源になっているから、「人間は星のカケラでできている」とか「星から生まれた」とか言われる。
そして夫婦の和合により精子が卵子に到達すると細胞が分裂増殖しはじめる。しかし、それだけでは人間はできない。「人間なるもの」の設計が必要であり、その設計(智慧)に従って、ただ単に同列一様に細胞が分裂増殖するのではなく、手となり、足となり、内臓各器官の臓器となって配置されなければならない。このように智慧(つまり生命)が天下ってそれに導かれることがなければ、人体なるものは誕生しない。人体を誕生せしめたものは智慧ある生命であり、その智慧ある生命が人間であり、人体は地球という天体で生活するための宇宙服と言えるのではないだろうか。
つまり人間は、色々な言い方が出来るが、要するに宇宙を誕生させた智慧ある生命と同質であり、生命から誕生した生命である、といえるのではないだろうか。
たとえば、「私の身体」という言葉は、所有格を意味する言葉で、「私なるもの」と「身体」とは別であることを示しており、「私なるもの」が身体から去れば、その身体を「抜けがら」とか「亡きがら」とか言うことを思えば、「なるほど」と頷けるのではないかと思う。
その智慧ある生命を、尊きもの、神聖なるもの、素晴らしいもの、とかいうのではないだろうか。
であればこそ、それに反することをすれば気が咎めるのであり(本来の自分ではないから)、反対に他に親切をした時とか、何かよいことをした時に嬉しくなったりするのは、それが本来の自分であるからだろろう。
インターネットで調べた記事の中には、「自分らしく生きること」とあったが、その「自分らしく」とは具体的に何かは書かれてなかったが、つきつめれば、多分、上に書いたようなことになるのではないだろうか。
以上は、本で読んだ受け売りですが、いじめが少しでもなくなることを願いつつ書かせてもらいました。
最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございます。