風薫る五月!気持ちがいいですねえ。薫風だ。
我が家の生垣のツツジが満開寸前。近所の皆さんがいつも「きれいですねえ」と讃嘆してくれます。だから今年も花をいっぱいつけて、カラフルに咲き誇る。それを見ながらわたしはいつも「五月だなあ」と思うのです。
五月は鯉も空に泳ぎ、人の心も躍る季節。
そういえば、自分がまだ若葉だったころ、「コイの季節」とかいう歌があったっけ。
あ、これは関係ないか。
いや、そうでもない。
五月は、人が万物に恋をする季節なんだ。
いや、それとも万物が人に恋をする季節なのかもしれない。だから万物が輝くのかも・・・。
知ってますか?
すべては物質に見えていても、本当の姿は霊的波動なんですよ!
量子論でも言ってますよ。「波であるものが、観察したときには粒になる」と。
すべてがお互いに波動で、そのお互いの波が混じり合い、影響し合っている。
だからお互いに意思の疎通もできるんですね。
むかし、「霧笛が俺を読んでいる」という映画がありましたが、僕はそんな気障なことは言いませんが、しかし、やっぱり「山が俺を読んでいる」なんて真面目な顔して思っている・・・。ハハハ、しかし、自分が山に行きたいと思うより、山に呼ばれていると思う方が、幸せな感じがしますが、なんででしょうね。(笑)
ところで、昨日『生命の実相』の第7巻にある「艱難を光明化せよ」という章があり、あまり素晴らしかったので、「朗らかに笑って生きよ」という章も合わせて、まるごと抜き書きして小冊子にしたのですが、その中に、こんな一節がありました。
○そうだ、神は生命の源であってわれらは皆、生命なのだ、生命の本来の面目は自由自在なところにある。しかし、自由が自由とわかるのは、自由がただ障害を破ったときにおいてのみである。剣の名手は、敵者(あいて)があらわれてはじめて自分の自由を現実にすることができるのだ。水は平地にたたえられている時は、まだその自由は潜んでいるにすぎないのである。それが逆境の上に置かれるとき何物をも押し流す自由を得るのだ。
○おお、逆境こそはわれらの生命にいっそうの自由を与えるものではないか。空気の抵抗があるので飛行機は空を飛ぶことができるのではないか。タイヤに摩擦があるので自動車は地を走ることができるのではないか。どこにも障害のない世界、抵抗のない世界、摩擦のない世界は、本当は自由のようでも、その自由は永遠に発揮されないで「可能」の形の世界ではないか。
思い出しましたが、「ヒッグス粒子」という「神の粒子」とも形容される粒子が、昨年か一昨年だったかに発見(まだ確実ではないが)されたと話題を呼びましたが、これは宇宙誕生の初期(まだ星々が誕生する前)に、それまで質量もなく自由に飛び回っていた素粒子たちが、宇宙の中に突然にあらわれたヒッグス場、ヒッグス粒子によって抵抗を受け、それによって質量をもつようになったとされています(仮説)。質量とは「動きにくさ」でもあるわけですが、その「動きにくさ」によって、逆に自由になったようなものです。人間も質量があるから、ちゃんと安定して大地の上に立っていられるようなものだ。つまり、かつては素粒子たちも宇宙に突然現れたヒッグス機構という逆境にさらされた時代があったわけですね。そして、それが、今わたし達の身体にもなっているわけだ。だから、人は歩くのに抵抗のある山に登りたくなるのかもしれないね。
それはともかく話がとんでもない方向へそれたので、どう締めくくってよいか分らなくなってしまいました。まあ、皆さん、善い休日を。
お詫びに出血大サービス、今思いついた恥ずかしい句を。
薫風や空から天使の投げキッス
おのおのがた、「朗らかに笑って生きよ」でござりまするぞ。ワッハッハ