気の向くままに

山、花、人生を讃える

祝、聖経千巻読誦達成

2011年10月15日 | 信仰
早いもので10月もはや中旬となり、今日は久し振りのまとまった雨が降っている。
金木犀が良い香りを放っているが、家内が言うには湿度が高いといっそう香りが強くなるとのこと。
その金木犀もそろそろ終わりを告げ始めている。

その金木犀に負けないぐらいに良い香りを放っているのが、誰かというと、この私である。
と、自分でそう思っているのが、昨日、今日の私である。(笑)

というのは、昨年の11月21日にふと思いついて聖経の千巻読誦をはじめたが、3日前に達成前夜となって浮き浮きし始め、一昨日はついに達成し、昨日はまた新たな千巻読誦の初日を迎えると云うおめでたい日が続いたからである。

千巻と云っても平均してみれば1日3巻だから、たいそうなことではないが、こういう嬉しさは数では測れないということなのかもしれない。続けてゆけば、自分が思い描く素晴らしさにまで生長していけるに違いないと蕾が膨らむように希望がふくらんでくるのである。

時間的、空間的に見れば道は遥かに遠いが、しかし、完全円満なる自分がいま既に実在しているのだというし、その本当の自分は、現象的な時間・空間を超えているというのだから、遠い道と云うこともなく、早い話が、いつでも、どこでもお釈迦様の手のひらの上にいるようなものである。
だから、いつでも、どこからでも再出発ができるし、もう年を取ったから遅いということもない。
いつ、どこで、初めから完全円満なる、神のいのちそのままの本当の自分に出会うかもしれないのである。

まあ夢ではあるけれども、夢にしても、実に壮大な夢ではないか。
いつまでも、ただの肉の塊なんぞでいられるもんか。
肉体を超え、時間を超え、空間を超えて私は羽ばたくのである。
神様よろしくお願いします。


さて、昨日、有難いことに天から少しまとまったお金が降って来て(笑)、いよいよ軽トラックを買えるようになりました。
シルバーで剪定の仕事をするようになって、いつか自分も軽トラックを持ちたいと思っていました。メンバーの半数が軽トラックを持っているからというわけではない。自分で持てば、本当の剪定職人になったようで嬉しいし、軽トラックに脚立を積んで、あっちの家、こっちの家と走りたいではありませんか。しかし、剪定の収入と購入費用を考えると、考えるまでもなく大赤字。
でも、やっぱり欲しいなあ。
いや、やっぱり維持費もかかるしなあ。
神様、軽トラックが欲しい!(笑)

と云うわけでしたが、昨日、その天から降ってきた(笑)お金を囲んで、

わたし:そのお金で軽トラックを買おう。
家内: そうだねえ。母がきたら(同居するようになったら)、お父さんが車で仕事に行ってしまって車がなかったら不便だもんねえ。

と云うことで、即決した。

これ、大きな声で言うけれど(笑)、千巻読誦達成の翌日だからね。

えっ?脚立から落ちて骨折したのは、いつ、誰のことだって?

まあ、いいじゃないですか。人生いろいろあるんですよ。
ワッハッハ。


○金光教祖が「大根にも机にもお礼を言う心にならなければならぬ」とおっしゃったと云うのは、御礼を言う形ではない。心が目覚めて大根の中にある大生命を見、机の中にある大生命を見たとき、そこに自然に御礼の心が湧いて来るのである。「天地の開ける音を聴け!」である。「一華開いて世界起こる」とはこれである。
しかし、「花未だ開かざる時の如くんば、何処へ目を著けよう。」
一本の花が開いているのを見たときにだけ、「天地の開ける音」を聴くようではまだ足りない。
それでは病気が治った時だけ神様は有難いと思って、病気の治らない時にもある有難さが分かっておらぬ。
其処で、「花未だ開かざる時に」天地の開ける音を聴き、天地の有難さを聴くにはどうしたら好いか?
                                (『無門関解釈』P50より)


「どうしたら好いか?」と云われても、わたしに分かるわけはないのだが、読んでいるだけでも、天地の開ける音が聞こえてきそうなので、引用させてもらいました。


≪追記≫
最近、シコク様のブロク「いろどりひかる☆(2) 」(http://blog.goo.ne.jp/hinokagayaki)に、実に感動的で素晴らしい体験談が発表されました。すでに読まれている方が多いと思いますが、まだ読んでおられない方がありましたら、是非、読んでみてください。『ふたつめの誕生日~神様との約束』と『父との和解』と題する2つの記事です。
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