うららかな晴天の日曜日。
まさに山日和ですが、残念ながら、娘が来るというので自宅待機でした。
娘が来ると、見事な蘭の鉢植えを手にしていて、還暦祝いのプレゼントだとのこと。
デンドロビュームという種類だそうで、レモン色が見事です。すっかり魅せられてしまいました。
それにしても、男にとって娘はいつまでも花のような存在ですね。
ちなみに、のんびりと家にいる次男坊は、気のない口調で「あ、そうお。おめでとう」でおしまい。(笑) ・・・いかにも、らしくて可笑しかったです。
わたしも、父の還暦のとき、「ふーん」でおしまいでした。
わたし本人はと言うと、いよいよ60歳になったか・・・という思いはあっても、それが還暦とはあまり結びつかず、「還暦?あ、そうお」という程度なもの。
ただ、60歳まではともかく大丈夫という、なんとない自信があったので、生命保険に加入しないできたので、まずはめでたし、めでたしと思っています。
ところで、女性は生まれつき「育てる、育む」という志向が備わっていて、いわゆる「愛」を持っているように思われるのですが、それに比べると、自分が例外なのかもしれませんが、男性は一般に自己中心的で、「自分の思うように」という志向で生きている気がします。
(他の男性の方違っていたらすみません。ちなみにわたしの血液型はO型です)。
もっと言えば、自分でもなかなか気づかないところに「支配欲」というようなものがあるのではないかという気がします。例えば「俺の言うことに従え!」というような。
少なくとも、自分はそうだったと今ははっきり言える。もちろん今でもたっぷりありますが。
そのことに気付かされたのは、自分が、多少なりとも開放されてからでした。
それから、開放されて気づいたのですが、「正しくあれ、清くあれ、男らしくあれ」と、何か外から強制されるようなものを感じていたように思います。純粋に内からの「かくあれ!」というものだったらいいのですが、そうではなく、外から、あるいは神からそれを要求されている・・・。そして、自分も他に要求するようなところが多分にあったように思います。
ところが、そうではなかった。
「ねばならぬがない教え」といわれている通り、外から強制するものは何もなかったのですね。
神様が書籍をとおして、そういう強制や縛りから解放してくれたのでした。
「わたしはあなたがたに何も要求していない。わたしが望むことはただ一つ。あなたがたの望むことが実現することだけだ。(その為に、言葉という道具を与えた)」
「わたしは、すべてのすべて。すべてがすでに備わっている。だから必要とするもの何もないし、何も要求するものもない」というわけですね。
で、わたしも神様に何も要求されていない。完全に自由。ただ、愛されている!
それが神様の愛だという。
ジーンときました。解放とともに神様の愛を感じ、涙がこぼれ落ちました。
初めて神様の「愛」を感じた瞬間でした。
うれしいですね。わたしたちは何者からも、何も要求されておらず、完全に自由なんですね。
どんな自分であろうと、ただ愛されている!
だから、わたしにとっての愛とは、まず、自分の接する人たちに「かくあれ!」と要求するのをやめること。できるだけ、無条件に「放つ」こと。それから、できればそういう神様の愛を、聞いてくれる人に話すこと。こういったことが、今のわたしにとっての「愛の基本」であるような気がしています。
ありがとうございます。
≪写真:ザゼンソウ≫
座禅しているように見えるから、ザゼンソウだそうです。
良くいく山に、ちょっと季節を変えて行ってみたら、この4月にやっと巡り合いました。
植物園で3月に初めて見たのですが、山では初めてでした。背丈はおよそ10センチほど。
まさに山日和ですが、残念ながら、娘が来るというので自宅待機でした。
娘が来ると、見事な蘭の鉢植えを手にしていて、還暦祝いのプレゼントだとのこと。
デンドロビュームという種類だそうで、レモン色が見事です。すっかり魅せられてしまいました。
それにしても、男にとって娘はいつまでも花のような存在ですね。
ちなみに、のんびりと家にいる次男坊は、気のない口調で「あ、そうお。おめでとう」でおしまい。(笑) ・・・いかにも、らしくて可笑しかったです。
わたしも、父の還暦のとき、「ふーん」でおしまいでした。
わたし本人はと言うと、いよいよ60歳になったか・・・という思いはあっても、それが還暦とはあまり結びつかず、「還暦?あ、そうお」という程度なもの。
ただ、60歳まではともかく大丈夫という、なんとない自信があったので、生命保険に加入しないできたので、まずはめでたし、めでたしと思っています。
ところで、女性は生まれつき「育てる、育む」という志向が備わっていて、いわゆる「愛」を持っているように思われるのですが、それに比べると、自分が例外なのかもしれませんが、男性は一般に自己中心的で、「自分の思うように」という志向で生きている気がします。
(他の男性の方違っていたらすみません。ちなみにわたしの血液型はO型です)。
もっと言えば、自分でもなかなか気づかないところに「支配欲」というようなものがあるのではないかという気がします。例えば「俺の言うことに従え!」というような。
少なくとも、自分はそうだったと今ははっきり言える。もちろん今でもたっぷりありますが。
そのことに気付かされたのは、自分が、多少なりとも開放されてからでした。
それから、開放されて気づいたのですが、「正しくあれ、清くあれ、男らしくあれ」と、何か外から強制されるようなものを感じていたように思います。純粋に内からの「かくあれ!」というものだったらいいのですが、そうではなく、外から、あるいは神からそれを要求されている・・・。そして、自分も他に要求するようなところが多分にあったように思います。
ところが、そうではなかった。
「ねばならぬがない教え」といわれている通り、外から強制するものは何もなかったのですね。
神様が書籍をとおして、そういう強制や縛りから解放してくれたのでした。
「わたしはあなたがたに何も要求していない。わたしが望むことはただ一つ。あなたがたの望むことが実現することだけだ。(その為に、言葉という道具を与えた)」
「わたしは、すべてのすべて。すべてがすでに備わっている。だから必要とするもの何もないし、何も要求するものもない」というわけですね。
で、わたしも神様に何も要求されていない。完全に自由。ただ、愛されている!
それが神様の愛だという。
ジーンときました。解放とともに神様の愛を感じ、涙がこぼれ落ちました。
初めて神様の「愛」を感じた瞬間でした。
うれしいですね。わたしたちは何者からも、何も要求されておらず、完全に自由なんですね。
どんな自分であろうと、ただ愛されている!
だから、わたしにとっての愛とは、まず、自分の接する人たちに「かくあれ!」と要求するのをやめること。できるだけ、無条件に「放つ」こと。それから、できればそういう神様の愛を、聞いてくれる人に話すこと。こういったことが、今のわたしにとっての「愛の基本」であるような気がしています。
ありがとうございます。
≪写真:ザゼンソウ≫
座禅しているように見えるから、ザゼンソウだそうです。
良くいく山に、ちょっと季節を変えて行ってみたら、この4月にやっと巡り合いました。
植物園で3月に初めて見たのですが、山では初めてでした。背丈はおよそ10センチほど。
で、わたしも神様に何も要求されていない。完全に自由。ただ、愛されている!
それが神様の愛だという。。。。
ステキです~~~まさに浮雲ワールドという大海にぷかぷか浮かんでいるような心地良さ。
私も「ねばならぬ」が人一倍、強い気がいたしておりますが~~~今日の御文章で気持ちが晴れ晴れいたしました。ありがとうございます。
・・・ブックマークありがとうございました!出来るようになったのですね~~~さすが浮雲さま、飲み込みが早いとでしょうね~~画像だってしっかり貼れてるし。
すごいすごい。大拍手です。
ええ、そうですか~~。 もし、そうならシコク嫁様にこのような気持ちになっていただけて光栄です。
しかし、
>私も「ねばならぬ」が人一倍、強い気がいたしておりますが~~~
この点は、それはそうかもしれませんが、ここでの話とは、またレベルの違ったところでの話だという気がします。
でも、何にしても、いったん解放されて零になり、縛りがほどけたところから出発すると、それだけ気持ちも楽になりますよね。
リンクはすぐわかりました。写真の方は縮小の仕方で壁に当たりましたが、検索したら、その方法もすぐ見つかりました。まだ配置の仕方がわかりませんが、とりあえずは、これで満足しています。