気の向くままに

山、花、人生を讃える

「祈る」ということ

2021年02月04日 | 信仰

もう3年前になるかと思うが、救急車を呼んで家内を病院で見てもらう事になった。
診察の結果、肺がんが見つかったと聞かされた時は、一瞬、顔が蒼くなるのを感じたが、幸い、まだ初期段階とのことで、医師も「これは治るから大丈夫」と言ってくれたので、安心した。

 

私は、それでも手術をせずに済んで欲しいとの思いで毎朝祈った。が、祈りの効果はなく、手術することになった。
多少の自信はあったのに、まるで効果がなかったことにがっかりしたものだった。

 

しかし、だからと言って祈りの効果を否定するつもりはなく、ただ信仰が足らなかっただけのことと思っている。
そして何の効果がなかったにしても、なすすべもなく、ただ医者任せにするしか仕方がないというよりは、ともかく祈った点については良かったと思っている。これが無ければ次への一歩はあり得ないからだ。

 

もし、仮にこの時、医者が「あなたの奥さんのガンは、もう手遅れでどうにもできません」と言われたとき、祈ることも知らず、ただおろおろと心配するだけの自分だとしたら、情けないし、無念さを感じるに違いない。そして、なすすべもなかったことが、きっと悔やまれるに違いないと思う。

 

ちなみに、ガンなど祈って治るわけがないという人もいると思うが、しかし、それは病理学だけにとらわれた見解に過ぎないと思う。ガンなどは元々あったわけではなく、途中で生理作用か何かの影響で作られたものであるに違いないから、その生理作用に影響を与える精神状態が劇的に変わったりすれば、ガンが消滅する等のことはありうることだと思う。実際、「笑う」事が治療の効果を高めるとして、笑いを取り入れている病院がテレビで紹介されていたし、世界には医者が見放したガン患者が、本人か、その夫とか妻の信仰などで奇跡的に治ったという実例は探せばいくらでもあると思う。

 

それはともかく、治る治らないの結果は別にして、どんな場合でも、「お手上げ」などという事にはならないようにしたいものだと思う。
八方塞がりに感じられても、天の蓋はいつでもオープンにされているのだから。

コメント (4)
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