学校の先生に、ほんのちょっとしたことで褒められ、その先生が好きになり、成績がぐんぐんよくなったという話を聞きます。
反対に、先生から馬鹿にされ、それから先生に反抗心を持ち、勉強しなくなり、成績が見る見る落ちていったという話も聞きます。
子供ばかりではなく、大人でも、上役から褒められて能力を発揮し出す人もいれば、反対に上役が変って始終文句を言われるようになり、鬱になったという話も聞きます。
わたしは、以前にも書いたことがありますが、高校時代に堕落して成績は落ちる一方で、卒業後には国家試験があり、それに合格しなければ希望の職業につくことが出来ない、それがわかっていても、結局立ち直ることが出来ない人間でした。
そんな私に立ち直るきっかけを与えてくれたのが、生長の家の創始者である谷口雅春先生の本で、それを読んで人間観が変わり、立ち直ることが出来たのでした。
その人間観というのが、今朝読んでいた本の中に簡潔に現わされている文章があったので、それを、懐かしいままに、ここに書きたくなりました。それが下の「生命の進化」という一節です。
○生命の進化:吾々の生命は常に一層高き進歩に向かって行進しつつあるのである。併し、「低いもの」が如何にして、「一層高きもの」を思い浮かべ得るであろうか。「一層高きもの」はそれよりも「低次のもの」を考えるのはいと易きことであろう。しかし「低きもの」には「一層高きもの」を理解することはできない筈である。現在「低きもの」でありながら、「一層高きもの」を理解し得るのは、その「一層高きもの」に触れることによって、自己の内にある所の「一層高きもの」が喚び出されてくる結果と言うほかはないのである。
「一層高きもの」に生命が進化し行くのは、既に「一層高きもの」が生命の内部に宿っており、それが色々の環境や条件や境遇や経験によって触発されて輝き発して来るにほかならないのである。吾々は今与えられている環境・条件・境遇・経験から逃げ出そうと考えてはならないのである。それを喜んで受け、それから得られるところの凡ての経験を通して吸収しなければならない。それによって吾々は内在する無限の神性を、一層多く開顕することができるのである。 『生活の智慧365章』より
或る天文物理学者が言っていました。
「吾々が宇宙を理解することが出来る、それが不思議だ」と。
汚れを知らない少年の頃には純粋な心で、どんな悪にも負けないところの強さや正義や優しさに憧れたりするが、それはただの少年時代の夢想ではなく、人間の奥深くに本来的に備わっているものを、まだ汚れを知らない少年時代に感じるからではないだろうか。
私は、言ってみれば、「自分は救いようのないダメ人間」と思っていたのに、上役から、「いや、お前はそんな自分が思っている様なダメ人間ではない。俺が見る所、お前はなかなか筋の善い人間だ。頑張ればいくらでもよくなれる人間だ。もっと自信を持て!」と言われたようなものだったのでした。