『神との対話』(ニール・ドナルド、ウォルシュ著)には、自分が普段心に想い、口にし、行動したりすることは、どんな些細なことであれ、すべては「自分は何者か」という事を表現している、と書かれている。そして、その表現されたものは「自分自身の自画像である」と。
もし、地域的なことであれば、その地域に住む住民の自画像であり、国家であれば国家の自画像であり、団体や組織であれは、その団体組織の自画像であると。そして若し、国家が戦争をすれば、それがその国の「自画像」である、というわけです。
さて、
たとえば、家内が何か私の気に入らないことをしたとして、私が心の中で、それを不平不満に思うとする。こういう場合、たいていは、不満に思ってはよろしくないと知りながら、家内がこうなんだから、自分が不満に思うの仕方がない、と思うことが多い。
しかし、「自分の気に入らないことをすれば、ちょっとしたことでも不満に思うのが自分である。これが自分の自画像である」となると、そんな自分を情けなく思い、、なんとか自分を変えたいと思うのが普通の人間であろうと思う。(普通なら、その様な自分に満足はできないだろうから)
この場合、「家内がこうだから仕方がない」という心の状態から、「それを赦せる自分になりたい」という心の状態になる。これだけでも大きな1歩であり、少しは子供から大人になり始めた、と言えるのではないか。
そんなわけで、『神との対話』に書かれている、
○どんな些細なことであろうと、すべては「自分が何者であるか」を表現している。
○世界に向かって「自分はこういう人間である」と表明している。
○社会に「自分の自画像」を写しだしている。
という、このような視点を持つことは、とても大切なことではないかと思います。