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気の向くままに

山、花、人生を讃える

自分が求めたからでした。

2011年09月07日 | 信仰
8月のはじめの相愛会の一泊見真会で体験談をすることになり、その原稿を書いている時、とても嬉しいことに気づかせてもらいました。

それは、「どうして自分が生長の家の教えに触れることができたか?」ということですが、今までは、いくらあれこれと推測したところでわかるはずもなく、ただ「幸運だった」というより他はなく、その幸運を有難く思うのみでした。

ところが今回その原稿を書いているとき、生長の家の教えに触れることができたのは、ほかならぬ自分自身が求めたからだということに気付きました。

というのは、生長の家の教えに触れる半年前、あることをきっかけに信仰に救いを求める意識が強烈に湧きおこったことがありました。そのきっかけとなったものは単なる杞憂だったことがわかりましたが、しかし、「杞憂に過ぎなかったから良かったものの、それが杞憂ではなく本当だったとしたら・・・」と、そう考えると、やっぱり「信仰が必要だ」と強く感じさせられました。
それで、ある宗教の門を叩いて入信しました。ただ、本を二冊読んで興ざめし、半年で脱退したのですが、ともかく「自分が求めた」ことと、生長の家の教えに触れたこととは、これまでつながることもなく、ただ幸運とのみ思っていました。それが、今回原稿を書いていて、はじめて、
「そうか!自分が求めたからこそ、それに神様が応えてくださったのだ!」と気づいて、驚くとともに、神様と気持ちが通じたように嬉しくなりました。
「偶然の幸運」としか思えなかったことが、実は「神様が自分の求めに応えってくださったのだ」とわかったのですから、そりゃあ、うれしいですよね。

そして、(正確ではありませんが)
「神はあなたが求めるに先立ちて、あなたに必要なものを与えてい給う」
と言ったイエスの言葉が、より真実に感じられたことでした。


≪追記≫
ある宗教の脱会から生長の家の教えに触れるまで、なんとなく1年ぐらい経っているような気がしていましたが、記憶をさかのぼってみると、脱会後、本当に間もなくの期間(1ヶ月もない)しかなかったことに気づきました。
ただ、脱退したことでホッとし、その後は、信仰のことなどは何もなかったかのように、すっかり念頭から離れ、消えてしまっていました。そして、全く別のことから本屋さんで『生命の実相』見つけて読んだのが教えに触れた始まりだったので、そのことと、「自分が信仰を求めた」ことがあったこととは全くつながらず、気づかずにきてしまったのだと思いました。