常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

「なんちゃって」の重要性

2010年04月19日 | 日常

最近、本を読んでいます。

普段、あまり読書をすることはないのですが、先日、友人が飲み会の最中、わざわざ中座して書店まで行って、自分のために書籍を買ってきてくれたので、それを読んだりしています。「○○って本、読んでみなよ」というレベルだったら、多分、読んでいないでしょう。今回のケースでは、わざわざ雨の中、飲み屋を出て、本屋まで行ってくるという行為にまで及んでくれた友人に対して、私なりに、その心意気にきちんと応えなければと思った次第です。

渡された本は数冊あります。そのうちの一つが、ニーチェの「ツァラトゥストラはこう言った」なる本でした。

総論、言いたいことはよく分かる気がします。細かい言葉の定義や捉え方等については、往々にして書き手と読み手の間に、ギャップがあるものですし、これは訳文でもあるので、細部に関して何かを言及するほど、隅々まで書き手の意図を理解しているとは思いません。ただし、言わんとすることは、一度は自分も思いを巡らせたものであり、非常によく分かる気がするのです。特に個人的には、イエス・キリストという人物に対する思いには、とても通じるものがあるようにも感じました。

ところで、私なりには、所々で「ツァラトゥストラ君、もう少し、肩の力を抜いていいんじゃないのかな?」と突っ込みたくなってしまいました。もう少し言うと、言葉の最後に「なんちゃって」と言ってのけるくらい余裕があってもいいのではないかというのが、私の率直な感想でした。

世界は、常に二面性を孕んでいます。表と裏、陰と陽、光と影・・・。ツァラトゥストラ(あるいはニーチェ?)の問題意識、世界観、人類への熱い想いはとても立派ですし、それは個人にとっても、人類全体にとっても非常に大切なことだと思います。

しかし、彼の言は、そのうちの片面ばかりが強く出ている点、否めません。

物事を論ずる以上、視点を定めなければいけませんし、そうでなければ論ずること自体が不可能になってしまいます。したがって、その視点を定めること自体は、致し方ないことだろうと考えます。ただし、それだけに拠ってしまっては、二面性を抱える世の片面しか言い当てることができず、もう片面については、バッサリと切り捨てざるを得なくなります。これこそが、論じるということの限界です。これを踏まえたうえで物事を論じる為には、「白」と言った瞬間、次に「黒」と言えるくらいの余裕が必要になるわけです。

つまり、「+1」を論じつつ、「-1」も受け入れる姿勢がとても大切だという事です。これは話のテーマが大きくなっても変わりません。「+100」を論じたら、「-100」を許容しなければなりませんし、「+10,000」を主張する一方で、「-10,000」を否定しない姿勢は、極めて重要であるということです。

特にこうした考え方は、今後の新しい世界秩序の形成において、とても重要なことだと思います(「脱亜入欧の終焉」等参照)。ニーチェが生きた時代、世界の仕組み、宇宙の姿、人類の存在意義、超人や創造主のあり様等を論ずるには、それらを一面から捉えていくということは、とても自然なことだったでしょうし、むしろそれで十分だったのではないかと考えます。しかし、これから先の時代においては、瞬時に両面を捉えるということが、これまで以上に重要でなるであろうと思えてなりません。

そういう意味で、ツァラトゥストラの言葉は、肩意地が張りすぎていて、現代から先の時代においては、通用しないスタイルになっているように思われるのです。私なりには、もう少し逆の視点や違った立場からの意見に対しても、柔軟に受け答えができるように、全ての言葉の最後に「なんちゃって」を付けるくらいのユーモアと余裕があったら、この作品はもっと先の時代にも、十分、通用する書物になるのではないかと思うのでした。

コメント
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