先日、私の親世代の方から学生運動の話を伺いました。今の時代では、到底、考えられないような思考で、学生たちがエネルギッシュに活動していたことがよく分かります。ところで、こんな話と一緒に言われたことは、現代の若者に対する嘆きでした。
-最近の若者はだらしないんじゃないか?-
おっしゃる意味は、よく分かります。とくに私たちの親世代は、間違いなくひとつの時代を作り上げてきました。そうした方々からすれば、今の若者たちが情けないと感じることは、十分に理解できます。また私自身、そんな若者を全面的に弁護するのは、難しく、若者も若者なりに変わっていかなければいけない部分があるだろうと考えています。
しかし、そうは言っても、今の若者ばかりが悪いと思っているわけではありません。むしろ現代の若者は、今の親世代よりも敏感、且つ真剣に社会の未来像について、思い悩んでいると言うことができるような気がするのです。
当然のことですが、親の世代よりも、若者の世代の方が、この社会に長く留まって生きていくことになります。より多くの未来を残していると言っていいかもしれません。私は、そんな若者たちが、社会の未来に対して真剣にならないわけがないと思うのです。否、真剣になるからこそ、「最近の若者はだらしない」と言われるほど、塞ぎ込んでしまうのではないかとも思うわけです。
おそらく、親の世代が若者として暮らしていた時代、社会の仕組み(世界の価値観と言ってもいいかもしれません)は、今ほど固まっていなかったのではないかと思います。まだまだ成長していく余地が残されていたし、それがどういう方向に転じていくか分からない世界において、若者たちが学生運動で何かを変えられるという可能性が残されており、またそう思えた時代だったのではないかと思うのです。そうしたなかで、昔は若者たちの「社会を変えよう」とする活力が、学生運動というかたちで表現されたのではないかと考えます。
ところが、現代社会の成熟度は、かつてのそれとは比較にならないほどのレベルに達し、その仕組みはこの上なく強固、且つ硬直的なものへと変貌しました。もはや、学生運動などということは、自殺行為以外の何物でもなく、かと言って、個人でいくら頑張っても、何も変わらないという絶望感を味わうしかないというのが、現代の若者が抱える悩みのような気がしてならないのです。もちろん私は、このままで良いとは思いません。しかし、それだけ強固で硬直的になった社会の仕組みを前にして、その本質を見抜いてしまったが故に、動けなくなっているような若者がいることも、また事実ではないかと思うのです。少々、違った話ですが、「真面目な人ほどうつ病にかかりやすい」と言います。塞ぎ込んでしまっている若者たちには、これに通ずる真面目さがあるのではないかと思えてならないのです。
「現代の若者がだらしない」という指摘は、これはこれとして、率直に受け入れる必要があるでしょう。しかし、上の世代よりも未来を多く残している若者が、未来に対して真剣でないわけがないということも、また揺ぎない事実だと考えます。
私としては、そうした未来に対して真剣な若者たちが、「やればできる」と信じられるような仕組み、インフラを整えることで、これからの時代を大きく変えていくことに貢献していきたいと考えます。