常識について思うこと

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風林火山と「武」のあり方

2007年01月28日 | 武術

「風林火山」の極意。それはデジタル思考ではないかと思います。つまり「やる」、「やらない」のメリハリをつけ、曖昧な行動や思考を徹底して排除することが、「風林火山」のポイントではないかと考えるのです。

去年の秋。私は、娘の幼稚園の運動会に参加しました。そのなかの種目である騎馬戦、私は娘を負ぶって馬になりました。帽子をかぶった娘が、敵チームの負ぶられた子の帽子をとるというのが基本ルールなのですが、とにかく私は強かったです。

「よーい、スタート!」

一斉に50組近いパパ騎馬がフィールドに入り、敵味方入り乱れて帽子を奪い合います。もうスタートしてから、あちこちで帽子を取ったり、取られたリが始まります。しかし、私は絶対にこれに加わりません。

要は風林火山です。

【山】
フィールドの隅でラインを背にして、絶対に誰も後ろに回れない位置でじっと待つ。 近づいてくる他のパパ騎馬があっても、適当にラインを背にフラフラして、絶対にしかけることはしない。

【風】
たまに前から攻撃をしかけてきそうなパパ騎馬があると、反対側のラインに向かって、全速力で走りぬく。全速力で走るから、誰も我々の帽子を取ることはできない。そして反対側に着いたら、またラインを背にしてじっと待つ。

【林】 しばらく待っていると、我々の存在に気付かずに、私に背を向けてウロウロしている他のパパ騎馬が現れる。このときがチャンス!!そっと、そして素早く近づく。

【火】
背後から、サッと帽子を奪い取る。

【山】
奪い取ったら、また全速力でラインに向かって走り、ラインを背にして待ち続ける。 これを繰り返していると、私にはまったく危ないシーンがないまま、帽子を奪い続けることができるのである。

「やるべきときは徹底的にやる。やらないときは徹底的にやらない」

絶対に中途半端なことはしない0か1かの世界。このデジタル的な行動及び思考パターンが、まさしく「風林火山」の考え方の根底にあるのではないかと思うのです。これは、私の「妥協は許さない」という考え方にも通じます(「妥協が許されない理由」参照)。

ところで、こうした0か1かのデジタル的な考え方は、他のところにもみてとれます。

たとえば古武術。古武術は、いわゆる人を殺傷するための術であり、これを発動するときは、人を殺すことになることを想定しなければなりません。つまり、一度その術を使用するときには、徹底的にやるのです。それこそ、人の命を奪うつもりでやらなければなりません。だから、できることなら戦わないほうがよいのです。戦いは極力避け、極力耐えるのです。しかし、どうしてもというときには、やらなければいけません。真の武術家が戦うときというのは、こうしたギリギリの葛藤のなかで、大きな覚悟を決めて戦うのだろうと思います。そして一度戦うと決めたときは、死を賭して行動に移さねばならず、それこそ生き残るためには相手を殺すつもりで戦わなければならないのです。だからこそ、真の武術家であればあるほど戦わないのであると思います。

「武」の字は、「矛を止める」と書くといいます。つまり、真の「武」とは、それをもって殺しあうことではなく、互いの矛を止めることにその真髄があるというのです。「戦うときは、徹底的に殺すつもりで戦う」、「戦わないときは、何があっても絶対に手を出さない」。

「弱い犬ほどよく吠える」とは、よく言ったものです。弱い犬は、噛んだところで大した傷は残さないし、そのことを知っているから、むやみに吠え、むやみに噛もうとするのです。しかし強い犬は、自分が動いたときの怖さを知っています。だから吠えもしない、噛もうともしません。しかし、一度吠え、そして噛もうとしたら、とんでもない力を発揮するのです。強い者であればあるほど、まさに0か1かのデジタル思考を実践し、また強い者こそ人には優しく接することができるものなのでしょう。

蛇足ですが、古武術で歩く動作は、単に右足を前に出し、次に左足を前に出す、というものではありません。四股立ちで両足が開いている状態から、両足を揃える。揃えた状態から反対側の四股立ちとなる。この繰り返しが、古武術でいう歩く動作なのです。つまり「開」、「閉」、「開」・・・で前に進むのであり、「開」と「閉」の中間という考え方はありません。「1」、「0」、「1」・・・のデジタルの繰り返しのなかで、歩く動作が生まれるのです。この繰り返しの結果として、いわゆる「摺り足」のようなかたちで歩く動作になるというのが、古武術の歩き方です。これも、まさにデジタルです。

いずれにせよ、真の「武」とは、その強さゆえに、使わざるところに真髄があると考えるべきでしょう。「風林火山」で言えば、武を発動するときは、徹底的に「火」の如くであり、これは限りなき滅びへの道となるのです。「風林火山」の真意を知り抜いていれば、「武」は本来の意味のように、矛を止めるために、互いに動かず徹底的に「山」の如く、であるべきであることを理解できるようになるでしょう。

そして、だからこそ「武」は、競争をすることなく、平和を保つための有効な道具になるということができるといえるのだと思います。

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