常識について思うこと

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共有という楽しみ方

2008年01月22日 | 産業

ドラマやアニメ等、いわゆる「コンテンツ」を視聴するときの楽しみ方には、大きくふたつあると思います。

ひとつめは、目の前に展開する「ストーリー」や「シーン」を楽しむというもので、コンテンツを視聴するにあたり、楽しみ方の王道ともいうべきものでしょう。コンテンツの作り手の方々は、この視聴者の満足度を高めるために、クオリティーの高い作品を生み出すための努力をしているのだと思います。

ふたつめは、そのコンテンツを視聴した体験を他者と共有するという楽しみ方です。テレビで放送されたドラマやアニメを見て、翌日のランチのとき、友人や同僚とその内容を話題にして盛り上がるといったものが、それにあたります。

一般的に、コンテンツを楽しむというときには、とかく前者の楽しみ方ばかりに傾きがちになりますが、実は後者の楽しみ方というのも、大変重要なのだと思います。

テレビが主要メディアとしての役割を果たしている時代において、視聴者はテレビを通じて、このふたつの楽しみを十分に享受してきました。これは「国民的」という言葉を冠した単語に集約されると思います。以下、良質かどうかは別にして、「国民的」という言葉を冠するだろうコンテンツや人物について、私の感性で簡単な例を挙げてみました。

 -国民的ドラマ:「おしん」、「水戸黄門」、「太陽にほえろ!」等
 -国民的バラエティ:「紅白歌合戦」、「8時だヨ!全員集合」等
 -国民的アニメ:「鉄腕アトム」、「サザエさん」、「ドラえもん」等
 -国民的スポーツ:「野球」、「相撲」、「サッカー」等
 -国民的歌手:「美空ひばり」、「B’z」、「宇多田ヒカル」等
 -国民的スター:「力道山」、「王貞治」、「イチロー」等
 -国民的美女・美少女:「吉永小百合」、「後藤久美子」等

まず、上記については、読者の方々が想定する年代によって、さまざまな異見が出てくるのではないかと思います。最近では、メディアやコンテンツの多様化の流れが進んでおり、「国民的」という言葉で想起されるものが、非常に幅広くなってきているということは事実でしょう。逆に「国民的」という言葉を冠する単語を想起せよと言われて、非常に多くのものを思い浮かべてしまい、上記とは違うものが挙げられるというのは、まさに現代社会が多様化されていることの証でもあると言えます。

しかし、かつてのテレビ全盛(テレビが絶大なる影響力を持っていた)時代においては、それにほとんどブレはなかったと考えるべきです。そもそも「国民的」という言葉を冠する必要がないほど、そのコンテンツや人物に熱狂的な人気が集まっていた時代がありました。そして、その時代においては、誰しもがそのコンテンツを見聞きしており、全国民的にそれに関する知識が共有化されていたため、その共通の話題で、ほとんどの人々が会話できるという状況にあったわけです。これこそが、テレビが視聴者に対して提供していた「共有の楽しみ」です。

しかし、現在の多様化の流れのなかで、私たち視聴者は、コンテンツの楽しみ方としての「共有の楽しみ」を急速に失いつつあります。

自分にとってのお気に入りの映画は、映画館やテレビからではなく、レンタルショップの片隅にあるDVDから出てきたりしますし、大好きな漫画は、膨大な漫画を収納しているマンガ喫茶の棚にあったりする時代です。それのみならず音楽、ゲーム、スポーツ・・・あらゆる趣味や趣向が、隣にいる友人や同僚と一致する可能性は低いし、その傾向は今後さらに強まっていくとみるべきでしょう。

こうした流れのなかで、動画配信サイトである「ニコニコ動画」は、これから起こるであろう」通信と放送の融合」について、ひとつの重大な可能性を示唆していると思います(「通信と放送の融合」参照)。それは、この多様化している時代において、コンテンツにおける「共有の楽しみ」の実践です。

「ニコニコ動画」では、動画コンテンツを視聴する際に、それを視聴している他の人々がその時、その瞬間に何を考えているか、何を感じているかをコメントできるようにできています。例えば、あるアニメで主人公が負けそうになっていれば「頑張れ!」と応援したり、ホラー映画で不気味なシーンになれば「こわいよぉ~」とコメントしてみたり、といった具合です。視聴者たちは、そうしたコメントに対して、さらにコメントを加えて、互いに対話するという楽しみ方ができるようになっています。つまり「ニコニコ動画」で視聴している人たちは、単にそのコンテンツを視聴するというだけではなく、インターネットサイトという仮想空間を通じて、ひとつの「共有の楽しみ」を実現しているわけです。そしてまた、こうした「共有の楽しみ」は、単にひとつのコンテンツを共有しているということに留まらず、共有していることから生まれる仲間意識や文化を芽生えさせ、そこに強い結束力や文化圏を生むのです。

いずれにせよ、こうした楽しみ方の提供は、放送という片方向的な技術によってコンテンツの配信をしているテレビでは実現し得ず、インターネットのような双方向性を備えた通信技術で提供できるという点が重要です。

「テレビの役割が終わった」等と言うつもりは毛頭ありません。テレビはこれからも同報性を確保しながら、不特定多数の人々にコンテンツを発信するという重要な役割を担っていくと思います。しかし、時代の変化とともに、失われつつある「共有の楽しみ」を確保するためには、インターネットから生まれる新しい技術やサービスを、社会が求めるようになるでしょうし、そのときにテレビとインターネットは、それぞれ新しい役割を担うようになるだろうと思うのです。

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