常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

予測不能なカオス社会

2008年03月16日 | 科学

カオスという言葉を聞いたことがあると思います。カオスは、混沌や無秩序という意味で使われていますが、単にそれだけではないという考え方があります。それがカオス理論と呼ばれるもので、不規則で非常に複雑に見えるカオスでも、簡単な方程式で書き表せるほど一定の規則性があるとされるものです。私は、こうした考え方には正しい側面があると思っています。また、そのような前提で、その簡単な方程式で表せるような規則性に従い、この世界の未来を予見することはできるのではないかと考えます。

カオスは、複雑系という言葉で表現されたりもしますが、一般に複雑系と呼ばれる社会を予見することは、非常に難しく、事実上不可能であると考えられています。複雑系の概念を説明するたとえとして、「北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで嵐が起こる」という話があります。これはごく小さな初期入力値が、予想もつかないような、とんでもなく大きな結果を引き起こす、あるいは影響を及ぼすということを指しており、世界はそれほど非常に複雑であり、とても予見することなど不可能であるという意味だと解釈すればよいと思います。日本的な言い方をするならば、「春風が吹くと桶屋が儲かる」といったところでしょうか。

この複雑系で厄介なことは、常に無数の要因が存在するという点です。そしてまた、それらの要因すべてが、複雑系の一部として存在し、機能するため、相互に無限の干渉を引き起こしてしまい、それぞれどのように振舞うかが、まったく予測できないのです。

「ジュラシックパーク」という映画で、ひとりの科学者がカオスを説明するシーンがあります。そこで描かれたカオスは、ひとしずくの水滴を手に垂らすと、垂らされた水が、手の上でどのように振舞うかが、まったく予測できないというものでした。これは、まったく同じ条件で、「水を垂らす」ということができないためであると考えればいいでしょう。一見同じようにみえる「水を垂らす」という現象が、目の前で繰り返し起こっているとしても、非常にミクロにみていけば、垂らす位置(極めて微妙な手の震え等)、垂らされた水の量(分子レベルでの量)、水滴が落ちるまでの空気の状態(非常に僅かな空気の流れ等)、水滴が落ちるときのかたち(前者3つの要因の影響で微妙に変化することで変わる)、水滴が落ちる位置(前者4つの要因の影響や、水滴が落ちる人の手の極めて微妙な手の震え等)といったことが、毎回変わっており、結果として手に落ちた水滴がいろいろな動き方をするのです。このように、極めて様々な要因が、互いに影響しあっており、どのように変化するのか分からないため、「予測不可能」とするのがカオス・複雑系の考え方だと捉えればよいと思います。

こうしたことは、あらゆることに通じる考え方ではないかと思います。天気予報、競馬の予想、優勝チームの予想、事業計画の予測、日本経済の見通し、世界情勢の展望・・・。事の大小に関わらず、何かを予想・予測するためには、非常に多くの要因について、分析をしなければならないはずです。そしてまた、それらの予想・予測をする際の要因は、とりあえず「こうであろう」という前提条件を置いているだけであり、その要因自体が、予想・予測に使われていない別の要因(外的要因)によって、変化してしまう可能性は常にあると考えなければなりません。実際に、そうした外的要因の影響を受けて、予想・予測の計算を外れて、変化をしてしまうのが現実でしょう。

前述の「水滴」の例で言えば、最初の「水を垂らす位置」については、水を垂らす人の手の微妙な震えが影響するわけであり、それはその人のそのときの体調や心理状況によっても異なってきます。人間の体調のみならず、心理状況にまで影響を及ぼす要因まで洗い出そうとしたら、それはとても大変なことです。例えば、水滴を落とすその人の微妙な手の震えに、心的ストレスが働いていたとしたら、それは仕事の関係か?友人とのトラブルか?家族の問題か?仕事だとして、どんな仕事でどんな問題なのか。友人だとして、いつからの付き合いで、どんなトラブルになってしまったのか。家族だとして、親との問題なのか、子供との問題なのか、そもそも家族構成はどうなっているのか・・・。もはやその人を取り巻く環境すべてを考慮しなければならず、これらはとても特定できるようなものではありません。結局、予測・予想をするときには、それらの要因は外的要因として計算に入れずに、考えるようにするわけです。

このように整理すると、カオスの中身を計算するということが、きわめて難しく、一般的に予測不能とされることの意味が、分かってくるのではないかと思います。そして私自身は、こうしたカオスの中身を計算するということの限界を感じているが故に、敢えて計算をしない方がいいのではないかと考えています。カオスの中身を計算し、様々な予想や予測をされておられる方々の行為を否定するわけではありませんが、それらは、常に上記のような限界があるという意味において、別の視点も必要であろうと思うのです(カオス社会をどのように解いていくべきかについては、「カオス世界の読み取り方」を参照)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする