常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

求められるビジョン

2008年03月06日 | 政治

あるテレビ番組で、道路整備に関するテーマが取り上げられていました。なかなか難しい問題で、国会議員の方々が、そもそも道路整備が必要なのかという点を含めて、地元でヒアリングを行っている様子が放映されました。

私の印象は、地元でのヒアリング等では、とても答えが出ないだろうということです。当たり前のことながら、地元の方々にも、それぞれの立場や事情がありますから、「道路整備賛成」の立場を取られる方々もいるでしょうし、「道路整備反対」を唱える方々もいるはずです。また、そもそも財源の問題もあり、最終的には国家の財政責任を問われるような全体観をもった施策が必要なテーマについて、地元の方々の意見をどの程度組み入れるかといった問題もあります。国会議員の方の役目として、地元の方々の意見をヒアリングすることは、とても大切なことではありますが、そこからは決定的な結論は得られないと思ったのでした。

むしろ私は、今必要なのは、国会議員のような国政を司っている方々のビジョンであり、それに基づくリーダーシップであるように思います。戦後の復興から高度成長期のなかにあった日本にとって、日本国中を物理的に結ぶ道路インフラは、大変重要な意味を持っていたでしょうし、実際に大きな役割を果たしてきたと思います。今では、とても考えられないような「所得倍増計画」なるものが打ち出されたほどです。政治だけでなく産業界にも活気が満ち溢れていた時代にあって、道路インフラを整備するというのは、国家として極めて重大なプロジェクトであったろうと推測します。

時代が変わって、高度成長が望めなくなり、産業界全体にもかつての活気が失われつつある状況にあって、そうした道路整備の位置づけは変わってきたのだろうと思います。今日、道路整備について、国民レベルでも政党レベルでも、賛否が割れてしまうというのは、ある意味当然のことと言えるかもしれません。

そして私は、このように賛否が割れてしまっているときにこそ、国政を司る立場にある方々が、本領を発揮すべきではないかと思うのです。つまり、大切なことは強いリーダーシップであり、それを支えるための明確なビジョンです。それらはけっして、地元の方々からのヒアリングで出てくるものではありません。リーダーシップを発揮することを期待される立場にある方々の側から、出てこなければいけないものです。

国政を預かる議員の方々が、明確なビジョンを持ち合わせていれば、自ずとそれに向かうべき強いリーダーシップを発揮することができるはずです。そして、そうした方々が地元に戻れば、地元の方々からのヒアリングだけでなく、自らのビジョンを語り、具体的な施策を示すといった行動を取るのだろうと思います。

日本の産業をどのように再興させていくか。また、そのための具体的な施策とは何か。

このふたつについて、きちんと整理できていれば、道路整備の問題に対する具体的なアクションは自ずと定まるはずです。それは「道路整備は引き続き必要」ということなのかもしれません。あるいは道路整備に替わる代替案が出てくるのかもしれません。

国政を司る立場にある方々には、その職にある以上、強く求められるものがあると思います。いろいろと大変でしょうが、是非とも頑張っていただきたいと思うのでした。

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腹式呼吸のコツ

2008年03月05日 | 短編

きちんと息を吐く。これが腹式呼吸のコツです。下っ腹に力を入れて、お腹をグッと引っ込ませて、ギリギリまで息を吐く。これができれば、きちんと息を吸うことも自ずとできるようになり、結果として正しい呼吸ができるようになります。

呼吸と言うと、「酸素を取らなきゃ」という意識が働きがちになり、息を吸うことに集中する人は多いと思います。しかし、正しい呼吸をしようとするときには、息を吐くことにより集中したほうがいいかもしれません。

人間、生きようとしている以上、息を吐けば、自然と息を吸うようにできています。そこで意識すべきは、過剰に酸素を取ろうとすることよりも、体内の不要なものをきっちり出そうとすることです。きちんと吐き出していれば、真に得たいものは、自ずと得られるようになる。この考え方は、呼吸に留まらず、全てに通じるものです(例えば、「欲するものへの心持ち」等参照)。

まぁ、そんなややこしいことを抜きにして、ちゃんと腹式呼吸ができていると、ダイエット効果もあるし、肝っ玉も据わるようになりますよ。

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「自分教」の神社

2008年03月04日 | 宗教

「自分は神様だ」などと言っているうちに、私にお賽銭を投げる人が出てきてしまいました(言葉の真意については、「「自分教」の薦め」を参照のこと)。少々違うのですが、それでその人の気が楽になるのなら、それでもいいかということで、お賽銭箱を用意して、お金を入れてもらうことにしました。そうしているうちに、結構お金が貯まってきてしまったので、それで神棚の神鏡やら、鳥居やら、お社やらを買って遊び始めました。

諸事情あって、今は自宅の枕元に置いてあるのですが、その後いろいろと寄進物等も頂き、だいぶ賑やかな神社になってきました。

こうして遊ぶことも、私の人生にとっての「補助輪」だと思います(「外れない補助輪と外す努力」参照)。本来、補助輪なしで走りたいところではありますが、これはこれで楽しいのだから、いいのではないかとも思っています。私は、特定の宗教に頼ることは絶対にありませんが、楽しみながら、何かしらのかたちにすること自体、悪いことではないと思うのです。

そしてまた、いっそのこと、これもひとつの神社にしてやれ!などとも考えています。コンセプトは「自分教」。「自分教」の神社で、絶対に欠かせないものは神鏡です。救いを求めにやって来るのは構わないけれども、あくまでも大切なのは自分自身であることが重要なのです。どんなに救いを求めたところで、神様とは「あなた自身」であることを映し出す鏡は、「自分教」神社の必須品です。ただし、それ以外は何でもありにしたいのです。とにかく楽しむことが大切だと思います。

そこで今、この神社では、とにかく好き勝手に飾っています。ちなみに、写真にある女神ベルダンディー(神棚にはやっぱり神様!)と仮面ライダーシリーズのフィギュアは、私が自ら設置したものです。その他、知人や家族からの寄進物も混在していて、ずいぶんと賑やかになっています。

宗教だとか、何だとか硬いことを言わずに、楽しみながら自分たちの「救いの主」を作っていくのも面白いと思うのでした。

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外れない補助輪と外す努力

2008年03月03日 | 人生

幼い頃、最初から補助輪を外した状態で、自転車を乗りこなせた人はいなかったはずです。まず自転車は、足でペダルを漕いで前に進むものであり、ハンドルで方向を決めることができ、止まるときにはブレーキをかけるということを体で覚える必要があります。これらの動作が着実にできるようになった後に、バランスを取りながら前に進むということができるようになるわけですが、それまでの期間は、どうしても補助輪が必要になります。どんなに初心者でも、補助輪があれば、ほとんどの場合、何とか自転車には乗れることでしょう。自転車を乗りこなせるようになるためのプロセスとして、補助輪は必須品だと言えると思います。

しかし、補助輪に頼ってばかりいては、いつまでたっても、自分の力で自転車を乗りこなすことができるようにはなりません。補助輪を付けていれば転ぶことはないし、技術が未熟でも乗れるため、便利で安心ですが、付けっぱなしでは、自転車本来の速度を出せないだけでなく、自転車ならではの多少のデコボコ道や細い道を走ったり、小回りを利かせて走ったりすることができないままになってしまいます。

ですから、ある程度、補助輪付きの自転車に慣れてくれば、多少転んだりすることがあっても、補助輪を外して自転車に乗る練習を重ねて、普通に乗りこなせるようにするわけです。

補助輪の考え方は、人間の生き方にも共通する部分があるように思います。人間は、大変弱い存在です。生まれてきてから死ぬまでの間、必死になって自分ひとりの力で生きていこうとしながらも、なかなかそうはいきません。試行錯誤を繰り返しながら、自分ひとりの力の限界を思い知らされ、結局、何かに頼った生き方をしてしまうものです。いわば、補助輪に助けられながら、前に進んでいると言えるでしょう。補助輪には、いろいろなものがあります。家族、友人、会社、組織、国家、宗教・・・。これらはすべて、人が生きていくにあたって、どうしても必要な補助輪の役割を果たすことがあります。

ただし、人生における補助輪は、なかなか外れることがないという点で、自転車のそれとは異なり、またそのおかげで厄介な問題を引き起こしているようにも思います。

自転車は、いつか自分ひとりで乗りこなせるようになります。完全に外すことができるわけです。しかし、人は絶対に一人で生きていくことができません。つまり、上記のような意味の補助輪を完全に外すということができないわけです。

このことは、やもすると補助輪に頼り切った生き方をさせてしまうことになります。「どうせ外れない補助輪」であれば、人々は最初からそれがあることを前提とした生き方をしてしまう恐れがあるわけです。このことは、様々な問題を他人のせいにしてしまう無責任社会を形成させる原因にもなってしまいます。

私は、人間が生きていくうえで補助輪は必要だし、補助輪に大いに頼っていいのだろうと思います。家族に頼り、友人に頼り、会社に頼り、組織に頼り、国家に頼り、宗教に頼った生き方自体、悪いことではないでしょう。しかし同時に、補助輪は、所詮補助輪であることを十分に認識しておくことも重要です。補助輪に寄りかかった走り方をするべきではありません。本当に転びそうになったときに、補助輪に支えられることは悪いことではありませんが、何よりも大切なことは、自らが補助輪なしでも前に進んでいこうと努力することです。

ただ実際、人間は常に何かしらの補助輪によって、支えられているものです。もし今、あなたが「まったく補助輪なしで生きている」と言い張ったとしても、それはあなたが気付いていないだけと考えるべきでしょう。よく考えれば、分かることだと思います。

どうせ外れない補助輪。だけど、外そうという努力を続けること。

このふたつの矛盾の合間を縫っていくことが、生きていくということのように思います。

さて、あなたにとっての補助輪とは何でしょうか?そしてまた、あなたはそれをどのように外そうとしているでしょうか?自分自身に問い続けていくことで、生きていくべき道筋は見えてくるかもしれません。

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女神さまたちのお話

2008年03月02日 | 歌詞&台詞

「ああっ女神さまっ~闘う翼~」を見ました。よかった・・・。そしてまた、あらためて女神ベルダンディーの魅力にやられてしまいました。

以下は、戦闘を続けようとする女神リンドに対して、ベルダンディーがかける言葉。

「優しい人。あなたは戦いに喜びを見出しても、けっして喜びのために戦いをしない人、戦いのために戦いをしない人、戦うことを義務にする人。だけど、一人で全て背負うことはないわ・・・」

こんなことをサラリと言われてしまったら、もう絶対ダメ・・・><
つくづくベルダンディーには惚れるのでした。

ところで、この物語の最後の部分で、リンドが口にする言葉も印象的だった。

「必要なのは力ではなく、(中略)力を真に必要とすることだった」

さて、禅問答のような台詞ですが、これは僕がブログを通して言っていること。「力」とは何か。本当に必要なものとは何か。例えば、「道具の目的化の危険性」にも書いています。

「力」を求めるのではなく、真に「力」を必要とする者になれ。そうすれば、道具としての「力」は、自ずとその者に宿るようになる。

これは、ウソじゃないと思うんだなっ!

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